「琵琶湖の下水道事業に従事して34年(回顧録:一隅を照らす)」2011.11 
 -4/4-   1/4 2/4 3/4        間 壁  誠 
 平成9年度から平成15年度まで下水道建設課で公共下水道事業関係の仕事に4年、流域下水道事業関係に3年携わりました。平成9年度から下水道は土木部から琵琶湖環境部になりました。なぜなのか?どのような利点があるのか?さっぱり分かりませんでした。
 平成8年度末の普及率は46.7%でした。県下の旧50市町の内45市町が事業着手していました。ともかく普及率を伸ばすため面整備事業を推進しました。
 バブルがはじけ景気対策の予算が編成されました。生活関連事業として平成11年度は30%の補正予算がありました。総事業費は数年間520億円/年~650億円/年になりました。 平成8年度末に琵琶湖総合開発事業が終了したことで補助率は落ちましたが国から補助事業の要望請求があればどんどん要望すべきと思っていましたので、事業執行可能な市町には要望額通り配分を増加しました。
 大津市はこの期間でほぼ整備が終わってきました。後年(H20年)になって副市長が仰っておられました。「あの時期は起債が膨れ大変であったが、あの時期に頑張って良かった、起債も”平準化債”が適用され”起債の借り換え”も出来たので今はもう峠を越えたお金を頂ける時にやっていて良かった」と・・・。私も市町の起債が膨れたことも知っていたのでその言葉を聞いて胸のつかえが下りたような気がしました。

 公共下水道の指導で特に感じたのは、組長の施策の一つが、後世の市民生活や町民生活に大きな影響を及ぼすことを・・・。特に旧浅井町長や旧秦荘町長は町職員から町長になった人で常に町民の生活第一と考えておられるように感じました。とりわけ下水道事業には両名とも熱心でした。
 広域な面積である浅井町がいち早く全域で下水道が使用できるようになったのは伏木町長のおかげといっても過言ではない。当町長は建設費を安くするためポンプ施設を多用した計画を進めようとしたところ,”誰が維持管理するのか、上水道を見てみろポンプが故障したら大変だろうが、後世に負担を残してはいけない”として出来る限りポンプ施設を減じられたとか。
 また、秦荘町の北川町長は1カ所農業集落排水事業で整備した地域をいち早く下水道に取り込むように努力された。理由は”公共下水道区域の住民と比較すると不公平になる”とのことでした。
 そして、大津の山田市長におかれては、下水道事業がほぼ完成に至るとして大津市の下水道部長が相談にこられた。私は雨水渠整備と合流改善を進言した。雨水渠整備は河川課で単独事業として実施していました。皆さん下水道事業は本来雨水整備をしてから下水整備をする下水道法の理念をご存じなかった。当然雨水渠整備も1/2の補助率であった。部長が市長に進言すると即大津市全域の雨水整備基本計画の策定予算が決まった。また組織も下水道部から河川下水道部に替わり河川整備事業を進められた。現在大津市管轄河川はほとんど1/10確率で整備済みとなっているはずである。
 合流改善については,部長が今までタブーとされていた「大津の合流式下水道区域(浜大津から膳所付近まで)は一定の雨以上となると雨水と混合された汚水が琵琶湖に直接流入していることを・・・このままでは市長は水質汚濁防止法違反となりますよ」と、進言された(下水道新聞掲載)、平成10年に当時京都大学教授の宗宮先生を委員長とした学識経験者による「大津市合流改善検討委員会}が設置された。その後計画が策定され合流改善事業として平成19年度日本下水道事業団が受託し現在施工中であります。
 山田市長も流域下水道事業には理解を頂いた一人で市職員からも親しみをもたれていた市長であります。

 また、公共下水道担当時代には他にノンポイント対策として山寺川市街地排水対策事業の採択に流域担当と一緒に全草津市長が建設部長時代に大変お世話になって採択にこぎ着けられました。また、守山栗東雨水幹線は。守山市の市街地排水対策と絡ませ、平成11年6月に浸水した勝部町や今宿町を回り、下流地域の地域改善地域の雨水排水整備等と調整しながら新守山川河川改修と整合を図り、県で初めて流域雨水幹線事業の採択にこぎ着けることができました。

 平成12年度末の普及率は64.5%になった。公共下水道担当の4年間で約18%普及率を上げることが出来ました。マザーレイク21計画では琵琶湖の総合保全(負荷削減)の観点からH22年度末に85%とすることを目標としたので、この上昇率を継続すれば可能性があると思っていました。予想通り平成22年度末普及率85.4%を達成しました。

平成13年度からグループ制が適用され仕事のやり方が変わり職員一人にかかる負担が非常に大きくなりました。
 流域担当の課長補佐時代は流域事業の執行や大審査会の説明・低入札委員会等に振り回されました。特に低入札委員会は土木事業を知らない人たちで審議されていたので技術的なチェックの説明に苦慮しました。下水道は琵琶湖環境部内の委員会では低入札委員会の趣旨にあった適正な審査が出来ないのではと感じられました。
 下水道にも課題がありました、汚泥処理であります。普及率が伸び流入水量の増加とともに汚泥も増加しコンポスト用としての脱水汚泥搬出が多くなり臭気等の問題が出ていました。湖南中部は焼却溶融でスラグの再利用を実施していました。東北部の流入汚水はヒ素等が多く焼却灰の化学成分から処分先も限られてくると考えられ、湖南中部と同様に減容化と有効利用の目的から焼却溶融炉の建設を目指すことになりました。その条件等を定め日本下水道事業団に委託しました。入札条件に関して色々な不当要求らしき事象がなんどもあり対応に大変苦慮しました。当時は県に産廃処分場もなかったことから焼却溶融施設は当時としては当然な選択でありました。JR横断等のことを考慮し危機管理上からエネルギーはガスを採用しました。
 4年後その工事の完成に携わるとは思いも寄りませんでした。

 平成16年度初めて土木事務所に転勤となりました。甲賀と長浜建設管理部での経験は新しい1ページをもたらしました。地域との連携で汗をかく地域連携プロジェクトや天野川塾は地元住民と一緒になって課題を改善していくことにありました。まさに公助+協助の実践を甲賀で経験させていただき、長浜でそのプロデユ-スが出来たことは知見の拡大につながりました。また、土砂災害防止法の地元説明では、”危険区域(レッドゾーン)に指定されるとこの地域に嫁が来なくなる”という切実な意見も聞き身に迫る思いも味わいました。


 平成19年から2年間日本下水道事業団(JS)に出向し県内でJSが建設している下水道施設整備を監督管理することになりました。東北部浄化センターでは自分が条件設定した焼却溶融炉(110t炉)の最終プロジェクト委員会を開催することになりました。それはJVの設計時点から建設まで12回にも及ぶ委員会で東京大学の花木教授、日本大学の田中教授、大阪産業大学の菅原教授が評価委員でありました。最終委員会では滋賀県から示された設計条件を説明した上、試運転によってその条件を実証確認し評価委員に説明し承認を頂くものでありました。
 無事プロジェクト委員会で承認され完成検査の運びとなりましたが、県は本格稼働に際し地元集落から猛反対を受けることになりました。今まで運営協議会で説明してきたことが地元には一つも伝わっていなかったのであります。県と流域事務所は地元説明を幾度も繰り返しました、私どもはオブザーバーとして同席しました。地元からの質問回答や排煙物質の説明や危機管理に至るまで県の指示に従って資料の作成に努めました。結局県と地元が公害防止協定を締結することで本格稼働が出来るようになりました。これは全国的にも珍しく重い十字架を背負った運転開始になりました。

 平成21年4月下水道公社に転勤となりました。行革により下水道公社を廃止し包括民間委託するという方針が出された時期に東北部処理区と高島処理区の下水道処理施設の維持管理を受け持つことになりました。県の出向職員もプロパー職員も皆不安を抱きながらの維持管理でありました。1円でも安価な管理費にすべく手を抜くこともなく従事していました。私は不安を出来るだけ軽減するため、情報の共有につとめ新しい情報は即皆を集め伝え、その都度意見を聞きました。また,プロパー職員には仕事の合間を見て声を掛けるように努めました。
 
 長い間下水道関係の仕事をしてきたが維持管理は初めてでありました。県庁や流域下水道事務所で認識していた事とは違っていました。1ppm(百万分の1の単位:1mg/ℓ)を扱う数値で水質を管理していること。日々流入下水の水質や濃度が変わること。その流入汚水に対し微生物の活性状況を把握し薬剤の添加量を管理していること。ばっき(空気を送ること)量の増減や汚水量の流入配分を変えることで電気料や薬剤量が変わり経費節減につながることなど、焼却溶融炉についてはエネルギー削減(co2削減)のため,効率的な汚泥投入量や適正な焼却・溶融温度の確立を図るなどして日夜維持管理費の削減に努力しています。
 包括委託したときに、このような放流水質を考慮し、経済性を追求した運転管理が出来るであろうか、履行確認のあり方等、今後色々検討が必要のように思われます。

 昭和57年4月1日の湖南中部浄化センターの供用開始から今日まで新聞を賑わすようなことがあっただろうか?また、現在抗ガン剤や薬剤の汚水処理が万全でなくいわゆる環境ホルモンの問題が欧米で議論されていることを・・・。問題として報道されないと県民には何も伝わらない。
 ある雑誌に流域下水道は何千億円の事業費で無駄な幹線管渠を築造している。計画水量は各処理区とも約半分となっている・・・等々、高度成長期に計画された事業が全て正しかったとは思いませんが、当時は他府県の状況を調査しながら将来を想定して計画したものであります。その後齟齬が出てきた場合にはその都度計画を変更してきています。批判だけするのでなく、流域下水道に変わる施策で現在の琵琶湖の水質が確保できたのだろうか。また批判する前にその施設の利用実態を知る必要があるのではなかろうか。
 湖南中部処理区は中部幹線から先行投資を抑えるべく二条管に変更しています。東北部はすべて二条管で計画決定しています。
 湖南中部浄化センターから守山ポンプ場までの幹線管渠が今の大きさでどれだけ救われていることだろう。雨の時には24万トン/日の処理能力施設に約40万トン/日が流入する。いわゆる不明水である。東北関東大震災の福島原子力発電所がもたらした放射能汚染で下水道汚泥から高濃度の放射性物質が検出され汚泥処理が問題になっている事実を考えれば分かる事であります。
 大雨が降ると高島を除く3処理区はほぼ倍近くの流入水量となります。湖西などは到達時間が短く大変であります。大雨の時通常の処理が出来るはずがない。上流のポンプ場で流量制御しながら幹線管渠に貯留し水質汚濁防止法ぎりぎりの水質で放流しているのが事実であります。 全体計画で造った管渠は雨の時は常に満水状態になります。もしこの幹線管渠がなければ管理者は水質汚濁防止法違反を繰り返していることで責任を追及されるに違いない。この実態を職員全てが知っていなければならない。精度の高い判断は本質を見極めなければ出来ないことであります。


 退職間近に京都大学名誉教授の松井三郎先生と懇談する機会がありました。先生に琵琶湖保全の功労者を挙げるとしたら誰ですかと訪ねたら、それは武村さん(武村知事)でしょうと回答されました。私も同感であります。武村知事が琵琶湖流域下水道事業を推進し粉石けん運動など県民と共に琵琶湖の水質浄化に取り組んだからこそ、今の琵琶湖があります。
 課題はまだまだ山積していますが以前同様知事共々県職員そして県民が連帯感をもって色々な課題に取り組むことが出来れば苦も楽になるのではないでしょうか。


 私は退職して、第二の人生で日々新しい仕事に取り組んでいます。
そして、時々37年間の県職生活を振り返り”一隅を照らす”の言葉をかみしめ自問自答しています。
 仕事は一人でするものではなく組織でするものです。色々な成果は、その時々に良い仲間と切磋琢磨した結果であります。わがままな私が今まで勤めることができ思う存分仕事をさせて頂いたのは同じ職場で働いた皆さんのお陰であります。
 御礼を込めて節目の職場写真を掲載します。