「琵琶湖の下水道事業に従事して34年(回顧録:一隅を照らす)」 2011.11 
-2/4-  1/4 3/4 4/4          間 壁  誠 
 シールド工事は非常に分厚い設計書です。当時は今のようにコンピューターに記憶されプリンターで印刷されるのでありません。原稿は、みな手書きで設計書は「浄写」と言って3枚複写を臨時の職員さんに書いて貰っていました。設計書に間違いがあると大変です。その臨時職員さんの家まで訪ねて書いて頂くことになるからです。また、計算した資料や工程表などは必ず作成してあったのですが、人それぞれで個人が所有していたり最終結果のみ添付してあったりで非常に分かりにくく困っていました。
 そこで設計書の根拠となる工程表、損料計算書、歩掛表など全てを集め「積算資料」として設計書の最後に添付するようにしました。今は当たり前のようになっていますが昔はなかったのです。引き継いだ設計書を見ても何も残っていなく変更設計が大変だったことを思い出します。

 下水道管渠工事の技術は遅れていたうえ国の基準もありませんでしたので新しい技術を取り入れる時は、独自(滋賀県版)の歩掛や指針・積算基準等を作成しなければ各流域事務所や関係市町の工事がスムーズに出来ませんでした。
 湖南中部流域事務所で立ち上げた県と事業実施市町で構成する「設計検討委員会、後の工法検討委員会」や「流域委員会」で検討し策定していました。「薬液注入指針」「井戸及び家屋調査要領」「水道補償基準」「シールド及びセミシールドの工法選定基準」「下水道設計積算基準:黒本」「下水道設計積算指針:黄本」等などそして、 琵琶湖の周辺には水溶性メタンガスが分布していることからシールド工事の安全対策が求められていました。昭和56年、安全衛生法、鉱山保安法、酸素欠乏防止法及び長大トンネル対策指針等の法規と電機メーカーの防爆等の基準をもとに「可燃性ガス対策指針」を作成しました。その後、東京都や長野県でトンネル爆発事故が発生したことから、この指針の考え方を聞くため東京都下水道局が訪ねてこられました。

 泥水加圧シールド工法の限界:当工法は昭和51年頃から万能シールド工法として採用され、切羽は泥水皮膜(泥壁)で安定させ土砂を流体輸送で循環させ泥水処理プラントで土砂と泥水とに分離し泥水は再利用するものでした。しかし、滋賀県の崩壊性地盤では切羽保持が出来なく掘進管理不能となり大きな陥没を起こしました。湖南幹線比江工区ではカーブ部において急激な切羽崩壊により排泥輸送管が閉塞しその反動で坑内台車が転倒する事故が発生しました。事故状況を見ると新聞紙上を賑わす大事故にならなかったのが不思議で、坑内火災や死亡事故に至らなかったのが幸いでした。
 手堀推進工法の限界:瀬田川沿いの管渠工事は仕上がり管渠径(φ1350~1100mm)土被り5~6m等から推進工法を採用し、補助工法として圧気とブロー防止の薬液注入を採用しました。土質がシルト質細砂の軟弱土で水圧低下のため設置したデイープウエルの方向に推進管が引き寄せられる程でした。大江第2工区では推進管が締め付けられ到達立坑に着くまでに推進管に亀裂が入るため、鋼管で立坑間を繋ぎサヤ管として推進管を布設して完成させました。

 新たな工法の採用:川崎市下水道工事で泥水加圧シールド工法を採用したところ道路陥没が相次ぎ大きな問題となり泥槳(でいしよう)式シールド工法(後の泥土圧シールド)を採用し工事を完成させた、土質は多摩川下流地域の玉石混じり砂礫土と専門週刊誌に掲載されていました。
 今後の工法選定に頭を悩ましていたことから藁をもつかむ思いで発注者である川崎市に出向き教えを請いました。大きな違いは流体輸送ではなく”ズリトロ”(土砂をトロッコで運ぶ)方式であること、そして切羽の安定は不足するシルト粘土分を補いチャンバー内を塑性流動化させスクリュ-コンベアで排土するもので非常に理に叶ったものでした。しかし、川崎市はあくまで代替え工法としての採用であり「歩掛」がありませんでした。

 早速、滋賀県版泥槳(でいしよう)式シールドの歩掛作成に取りかかりました。問題は坑内、坑外の配置人員と日進量でした。シールド機メーカの聞き取りや坑内作業の運搬基準、国の手堀式シールド歩掛を参考に原案を作り流域委員会で検討し策定しました。また、国の基準として「泥土圧」と定まるまでは、各シールド機メーカーの名称に抵触しないように「削土密閉削泥剤注入バランス式シールド工法」として発注しました。初めての採用工事は湖南幹線小南1工区でした。1回目の入札は談合情報がありフイになりましたが2回目の入札で請負人が決定し、日野川横断、R100のSカーブもありましたが無事事故もなく完成しました。セミシールド工法(機械式推進工法)の初めての採用工事は瀬田幹線大江第3工区です。JR横断等長距離推進もありましたが無事完成しました。


 昭和57年4月1日湖南中部浄化センターが3市3町で供用開始されました。その前日の写真を見ると皆うれしそうです。苦難を乗り越えこぎ着けた顔・顔です。琵琶湖流域下水道の幕開けでした。当時の下水道普及率は4.8%でした。


 供用開始とともに土木事務所に転勤をお願いしていましたが東北部流域下水道事務所に転勤となりました。しかし、58年4月1日には転勤は出来ませんでした。6月議会に私が設計積算していた中部第一幹線のシールド工事2本を上程しなければならなく、結局2ヶ月間会議室で設計積算し完成させてやっと6月1日に転勤することが出来ました。

 東北部流域下水道事務所の当時の技術屋は係長含め3人でした。管渠工事の経験者は私一人で同期の一人は管理用道路と橋梁(差合大橋)対応で道路の経験者でした。夏頃までは職員全員で浄化センターや管理用道路の用地買収でした。地権者への説明会では対策委員の方から浄化センター設置の同意時に県と締結された十幾つかの条件をいつも錦の御旗のように見せられ非常に不愉快でした。湖南中部の時は矢橋町の祭り時に自治会館に呼ばれて酒を飲みながら同様なことがありましたが彦根は酒の席ではありませんでした。夜中に地権者を訪問すると犬に鳴かれたり,奥さんに泣かれたりして大変でした。

 用地買収が進むにつれてふと気づきました用地が買収できたら浄化センターは日本下水道事業団が工事に着手する。管渠は何も用意が出来ていない。これは大変ということで下半期に急いで工区設定し測試(測量、土質調査、実施設計)を1億数千万円発注しました。 東北部流域の幹線は彦根から長浜までは全て湖岸道路に先行投資を抑えるため二条管で計画決定されていました。また、当時は漁業者への事前説明が必要であり工事をするときは土木事務所も流域下水道事務所も上司が挨拶に行っていましたし、請負人もお土産を持参していると聞いていました。浄化センターの位置決定時は湖南中部も東北部も膨大な漁業補償をしたことも知っていました。
 琵琶湖沿岸の下水道工事を考えると工事排水が課題でした、そこで工事用排水の処理基準が必要でした。補助金を頂くためには根拠をつける必要がありますし漁業者に対しても最大限の努力をしている説明が必要であると考えました。また、土木事務所工事には影響を与えないことも必要でした。

 排水は直接琵琶湖に流すのではなく必ず河川に流すとして、矢倉川など一級河川に定められている環境基準のSS(浮遊物質)25ppmを設計基準とした濁水処理プラントを設置することにしました。シールド工事は必ず裏込め注入が必要でありその材料にはベントナイトや粉末粘土,セメント等を使用することから、期間としてシールド掘進から必要とすることで立坑築造などの一般土木工事は不要として定めました。

 最初の工事は彦根幹線と長浜幹線が合流する管理用道路と湖岸道路との接点でした。道路沿いに「しる万」という飲食店があることと松原水泳場が近接していることが大きな条件でした。立坑掘削の排水を出さない方法はないのか文献やコンサルタントの聞き取りをして探しました。
 大阪府で圧入ケーソンを施工していることが分かり、即確認に行きました。ニュ-マチックケーソンは比江工区で経験しましたが非常に大きな設備が必要であり、付近には圧縮空気がブローする欠点もありました。圧入ケーソンは規模も小さくしっかり工程管理すれば合流人孔も同時に築造できる工法でした。県で初めてのものでしたがこの工法であれば問題なく施工できると判断し歩掛り作成に取りかかりました。昭和60年7月、水中掘削しながら躯体(人孔)をジャッキで圧入する立坑とした耐圧防爆仕様のシールド工事を発注しました。
 昭和62年8月無事事故もなく完成することが出来ました。