「琵琶湖の下水道事業に従事して34年(回顧録:一隅を照らす)」2011.11 
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 また、米原市磯地先は山が琵琶湖に張り出しており岩盤を掘進するシールド工事が必要でした。岩盤シールドの歩掛りは出来ていたので心配はなかったのですが地震が起きた場合、シールドトンネルの挙動が土砂部と岩盤部では違うと考えられました。そこで、上水道で採用されている手法で検討することにしました。それは応答変位法という計算でシールドトンネルを弾性盤上の梁と考えてそのトンネルに地震加速度を与えると、岩盤部を固定点とした場合そこには大きな曲げモーメントが発生することが算定されました。この計算書を基に旧建設省下水道部と協議を重ねました、その結果、地震対策上の免震構造として可とうセグメント(せん断変位100mm伸び50mm縮み30mm曲げ角度1.1゜ねじれ角度4.4゜)を地質変化部(岩盤と土砂部の境)に設置することになりました


 昭和62年の会計検査は大変でした。まず管理用道路は不要ではないか!、流入管渠は地上権設定すればよい。そして浄化センターの裏山は購入する必要がないのではないか?
 管理用道路については、当時JRに沿って彦根市道彦根米原線(現県道彦根米原線)が計画決定されており,矢倉川まで舗装はしてありませんでしたが道路は出来ていました。「下水道事業の手引き」によると、管理用道路は最寄りの公道から設置するとなっている。計画決定されてあればこの市道から乗り入れればよいのではないか?
 JR横断するには直線横断が必要であり急カーブになり道路構造令上できないとか軟弱地盤で大変な地盤改良が必要とか反論しましたが、結局市道から乗り入れる工事費と管理用道路築造費(工事費+用地費)の差額分(約4500万円)の国費返還となりました。(国会報告無しで磯松原工区のセグメント代で返還しました。裏山については、国定公園であり緩衝緑地も必要ではということで今回は黙認されました。
 その比較設計の説明が63年1月10日であったため同年の末年始は資料作りに費やされ正月どころではありませんでした。また、この指摘事項で下水道建設課担当係長の東京出張は100回に及んだとか、会計検査で指摘されると大変です。
 
 東北部処理区(旧彦根長浜処理区)は急速に幹線を伸ばしていきました。下水道推進協議会で長浜に10年後に到達すると告げると大変驚かれました。湖北の人たちは流域下水道が整備されるのは20年~30年後と考えていたからです。それは、流域下水道に反対していた中西準子氏(当時東大助手)が事業着手前の集会等でそのように講演していたからです。 これら事が影響したと思われますが、旧びわ町や旧湖北町は下水道計画区域でありながら農業集落下水道を進めていました。縦割り行政を絵に描いたようでした。このことも後年県庁で農村整備課との汚水処理施設調整で頭を悩ます基にもなりました。
 長浜市は予定通り平成3年4月に供用開始出来ました。色々な人の意見を聞くことは重要ですが、反対論者等の内容は十分吟味した上で根拠を求めたりして事実を確かめながら正確に判断して行政等に反映させるべきとつくづく思いました。

平成元年下水道建設課から多賀町派遣となりました。多賀町は法手続が終わったばかりで下水道事業には着手していませんでしたし、大規模開発として東北部中核工業団地が計画されていました。当然下水道計画にも反映されていましたのでその計画もチェックしました。中核工業団地にかかる雨水排除計画は暗渠構造でしたが面積にしては大きいと感じていました。実施計画は地域振興整備公団が行っていてすでに町と県と公団等で支出割合等が決まっていました。
 排水管渠設計において施設設計指針による開渠の場合の余裕高が管渠に適用してありました。相手が公団ですので再度設計指針を監修している土木研究所下水道室に確認して計算の間違いを整理し下水道建設課に相談しました。事業費削減になることもあり地域振興整備公団に申し入れすることになりました。上司の友人が当公団に在籍されているとのことで東京本社に出かけ説明しました所、快く間違いを認めて頂くことが出来ました。
 多賀町建設課の補佐曰く下流末端の構造物まで入れると数億円安くなったとのことです。おかしいと思ったらチェックすることが重要とつくづく感じました。また、公共下水道の事業認可計画から事業実施計画を策定し面整備の実施に着手しました。
 初めての公共幹線実施設計(φ900mm)においては、土質が玉石混じり砂礫であり当時の採用工法は手堀が主体で有り、このような土質は補助工法を多用し苦労していたことから新しい礫破砕型小口径推進(アンクルモール)を採用しました。歩掛も協会歩掛かりを参考に町部掛を作成し、その後工法検討委員会に提案しました。カーブがないところは当工法が安価になることから、その後全県下で採用されることになりました。


 ところが、平成2年1月5日にくも膜下出血で入院することになり,おまけに頭の手術の次の日に胆管が破裂し腹膜炎を起こし割腹手術となり2ヶ月入院することになり1年で県に復帰することになりました。病気とはいえ多賀町や県の関係者の皆様には大変迷惑をおかけしました。

 平成2年の会計検査では、泥土圧シールド歩掛について滋賀県版と東京都歩掛が比較され配置人員と坑内作業工の職種が論点になりました。国の統一した歩掛がないためそれぞれの自治体が根拠をもって作成しているものですから調査官がいくら追求しても譲りませんでした。また、東京都歩掛との比較設計を求められましたが、東京都に迷惑がかかるかも知れないことですからそれもきっぱり断りました。数年後、国の積算基準が制定されました、それまでは堂々と滋賀県版の歩掛を採用して発注いたしました。