「琵琶湖の下水道事業に従事して34年(回顧録:一隅を照らす)」 2011.11 
−1/4ー   2/4 3/4 4/4          間 壁  誠  
「一隅を照らす」今でもはっきり覚えている。昭和49年4月研修を受けた坂本の研修所の講堂に掲げられていた言葉である。

私は、県職員生活37年間のうち34年間下水道関係の職場に従事してきました。丁度 今年下水道事業が開始されて40周年迎えますがその年に退職するとは感慨深いものです。
 入庁時の職場は下水道建設課でした。当時は県庁本館の5階(尖った部分)にありました。4階まではエレベーターでそれからは階段を上がり出勤していました。下水道計画は階段下の 4階にありありましたが10月頃完成した新館4階に両課とも移転しました。
 現在は下水道課一つになりましたが下水道のように多種の業務がある部署は企画・計画・経営、契約、係争関係などと維持管理・更新・改築・公共指導関係などに分けた二課で運営した方がより的確に執行でき惹いては無駄がなく経済的になるのように思います。
 流域下水道事務所はあくまでその他機関の建設事務所として位置づけられた事業執行機関であり基本的な計画や考え方・趣旨は両課で定め執行する体制がよいと思われます。
 そして、いずれは上水道事業と同様に企業会計に移行することが望ましく思います。
 1年目で鮮明に記憶していることは、東北部流域下水道(当時は彦根長浜処理区)事業計画について開催された「公聴会」であります。8月3日彦根市民会館で定数250人の会場に約300人余りの傍聴者がつめかけ「反対」」の鉢巻きをした人も入り交じる中で二十数人の公述が行われました。傍聴者の一部からは副知事に向かって「強行するならいつまでも体を張って闘うぞ!」という人もいました。「琵琶湖の水質保全のため早急に下水道の整備が必要」とする賛成論者もいたが殆どが反対論者で「近くに終末処理場が出来ると環境破壊をもたらすとか「終末処理場からの排水は湖の水質や水温に影響し漁業に響くしイメージダウンにつながる」との意見でありました。私は新採ながらも雰囲気から事業実施の了解を得るには相当の日数が必要だと言うことは十分すぎるほど理解できました。
 結局、その後色々な団体の反対運動、集会等もありましたが、東北部浄化センター環境影響調査などを実施し、調査委員会での検討を踏まえ、知事から「幾つかの問題点の解決に努力することなどを条件に理解と協力を願う」等の要請がありました。そして関係市町の同意を得、地元住民との対話を進めた結果、昭和55年2月都市計画決定がなされ、事業の実施は約10年後の昭和58年でした。丁度私が東北部流域下水道事務所に転勤した時でした。


  昭和49年12月に武村知事が誕生し事務所強化という方針がだされました、私は1年目ながら事務所への異動を希望し係長と一緒に昭和50年4月湖南中部流域下水道事務所に赴任しました。
 初めての工事は近江大橋(S49年に開通)取り付け道路(当時は2車線)の将来車線に埋設する開削工事(新浜工区φ1350mm管渠築造工事)でありました。
 下水道は基本的に処理場、ポンプ場は土地収用であるが幹線網は殆どが道路使用の占用者で、必ず管理者の了解が必要でした。現場から取り付け道路に出入りする工事用車両は1日何台になるか?それによって有料道路を利用する車両が減ったらどうするのか?等色々な条件や質問を出され幾度も足を運びました。その時、係長の下にいた先輩が声を掛けて下さいました「間壁君、やけを起こすなよ根気よく話せば分かるものだから」私はその時から交渉に行くのが苦にならなくなりました。”困っている人がいたら声を掛けよう”との教えが以後の下水道仲間を広げたように思います。また、当時は電卓はあったもののパソコンなどありません。土留めの安定計算も切ばり・腹起し計算も全て手計算です、もちろんヒューム管の安定計算もです。この工事を経験したことで土質の考え方、水のポテンシャル等を学ぶことが出来、その後の様々な立坑や管渠工事の施工技術の検討に役に立った様に思います。
 また、副監督として仕上がり内径φ3800mm手堀圧気シールド工事の湖南幹線山田1及び2工区にも携わっていました。切羽(トンネル先端)から出てくる水を1気圧以上の空気で防ぎ、土砂の崩壊は薬液注入等で防止して掘り進んで行く工事でした。切羽には小さなバックホーは設置してあるものの殆どが手堀で過酷な作業でした。この圧気に幾度も入ったことから歯が悪くなったような気がします。


 昭和49年に発注されたこの2工区を始め他の4工区は花の6工区と言われ全てが手堀圧気シールド工事で注目を浴びましたが、薬液注入工の追加等で何億円もの増額変更設計となり、議会で大きな問題となって機械シールドの開発が望まれました。滋賀県でも次工事からは泥水加圧シールド工法の採用に移っていきました。そして当工事の排水は琵琶湖周辺地域特有のシルト質粘土で、排水は白濁水となり琵琶湖湖岸の山田地域まで届き”野菜が洗えない”と苦情が相次ぎ苦慮したことを思い出します。

 昭和52年に琵琶湖に赤潮が発生しました。琵琶湖が危ない!!事務所の水道水がかび臭く感じられました。ちまたでは粉石けん運動が盛んになり、県職の女性職員も県民にPR活動をしていました。
 武村知事が湖南中部流域下水道事務所に来られ、気さくに係長の椅子に座り”君たちも琵琶湖のために頑張ってくれ、私も頑張るから”と激励を受けました。知事が下水道事業を後押ししている!心が紅潮するのが分かりました。当時は職員も県民も一つの目的に向かって取り組みを進めていました。事務所は、俄然頑張ろう!という気運になりました。
 翌54年、琵琶湖富栄養化防止条例が施行されました。残業時間は600〜800時間/年でしたがあまり苦になりませんでした。

 この時期に処理場は日本下水道事業団に、幹線管渠は県施工という琵琶湖流域下水道整備分担施策が決まったようです。我々には供用開始に向け1mでも長く幹線を伸ばすことが求められていました。(昭和53年普及率3.8%)



昭和53年から湖南幹線矢橋工区(仕上がり内径φ4000mm泥水加圧シールド工法)の担当となりました。この管渠は湖南中部処理区の末端管渠で琵琶湖を横断し矢橋帰帆島のポンプ棟に到達する工事でありました。
 現浜街道と管理用道路の交差点付近に発進立坑を築造し発進しましたが、そのままの縦断で進むと琵琶湖に入ってから浮力が働き安定性が確保できないことが分かり、湖岸に立坑を追加して外径5040mmのシールド機をジャッキダウンし2.5m縦断を下げ再発進することになりました。
 追加立坑は、鋼矢板施工の限界であるX型L=26mで土留めを行い、切ばり腹起工法で施工しました。鋼矢板打設工法はオーガ−併用でありましたがデイーゼルハンマー打ちだったことから矢板のセクションが途中で開き,パイピング現象を起こして掘削機(ミニバックホ−)が何回か水没しました。最終的には鋼矢板より長い30mのデイープウエル(8インチの水中ポンプ)を2本設置することで立坑が完成しました。この立坑施工時には近接して矢橋大橋の上部工の工事が行われていたことから地盤沈下など起こさないよう細心の注意が必要でありました。立坑水没時は当然下水道建設課で協議を行いました。課長は若い私の言葉に耳を傾け”琵琶湖に近接する場所での地下水位低下は、動水面勾配を考えると鋼矢板長以上のデイープウエルが必要”とする意見に推奨して頂きました。私は感銘を受け、工事の完工に意欲が湧いてきたことを今でも鮮明に覚えています。
(現在矢橋大橋の手前に飛び出ているマンホールは私が造ったものです。外周道路はあの位置に出来る予定でしたが琵琶湖に近づいたようです。また、マンホール内部に2.5m落差があり減勢工が造ってあることから堆積物が貯まった場合上部から排出できるように二重蓋構造にしてあります)。