琵琶湖流域下水道湖南中部浄化センター敷地造成工事の思い出-1
|1||             今堀 吉一  
1.はじめに
昭和50年3月の末、「滋賀県湖南中部流域下水道建設事務所勤務を命ず。」と記載された一通の書類が家に配送されてきた。当時、新採職員は直接勤務地に行くこととなっていたので3月31日、記載された住所を頼りに私の最初の勤務場所を確認しに行ったところ、事務所は当時の栗東町小柿にある1階建ての小さくて古い建物で、後日聞いた話ではかつての家畜保健所の建物を利用したものであったらしい。
 事務所の執行体制は庶務係、建設第1係、建設第2係の3係制で、建設第1係は浄化センターを担当、建設第2係は管渠を担当し、私は第1係に配属された。昭和47年に制定された「琵琶湖総合開発特別措置法」の重要事業である下水道事業であったが下水処理場は嫌悪施設であることから建設予定地の周辺自治体から猛反発を食らったものの地道な交渉と地域対策で何とか事業着手にこぎ着けていた。浄化センターは草津市矢橋沖の琵琶湖南湖を埋め立てて造成することとされ、昭和48年度から浄化センター敷地造成のための護岸工事が開始された。私が奉職した昭和50年には浄化センターでは矢板護岸の打設が完了し、場内2カ所で20m四方程度の試験盛土が設置され盛土による矢板や組杭の変位が測定されているところであった。工事発注当初は山土による埋立を前提とされていたので中間水路側の南北二カ所は航路として解放されていて、現場にはむろん船で渡るしかなく工事用の資材は対岸の大津市御殿浜に設置された仮設桟橋から台船に乗せて運ばれてきた。県は船外機付きの小さな船を所有し、現場近くの桟橋(当時の矢橋漁協の組合長所有)に係留していた。昭和50年度の前半はまだ護岸工事が継続していたので請負人の船に乗せてもらうこともできたが工事が竣工した年度後半はこの小型船が現場に渡る唯一の手段であり、私を含めて何人かは小型船舶操縦士の免許を取らせてもらった。
 しかし建設工事には着手されたものの、建設反対の声は依然強く、昭和51年3月、一部地元と下流府県住民から
  ・ 琵琶湖を埋め立てての工事であること
  ・ 工場排水と家庭排水を混合処理すること
を大きな論点として、工事の差し止め訴訟が大津地方裁判所に提起された。当時の知事は昭和49年の選挙で革新系知事として登場した武村知事で、従前の計画を改めて見直すこととして敷地造成工事を中断し、環境影響評価を実施した。委員には現計画に賛成、反対、双方の学識経験者が就任され、結果的に結論は一本化されず、両論併記の形で委員会は閉じられた。この結論を受けて県は問題点への配慮を行いつつ、現計画の続行を決めた。琵琶湖訴訟でもこれら委員が原告、被告各々の立場から証言することとなる。
 私は昭和51年度下水道建設課に異動することとなった。国と県が日本下水道事業団に三次処理の調査委託を行い、そのための実験プラントが大津終末処理場横に設置され、そこへの駐在が命じられた。プラントは前年の昭和50年途中で完成し、小山豊一氏が初代駐在員として年度途中で移動されていて、その後を引き継ぐこととなったのである。
当時、琵琶湖の富栄養化の兆候は顕著で、これを防ぐためには富栄養化の原因である窒素とリンの琵琶湖への流入を削減することが重要であり、下水道では窒素とリンを除去する技術の実用化が求められていた。私の勤務当時の主な課題は凝集沈殿および急速砂ろ過によるリン除去の効率化と、これに伴って発生する汚泥処理であった。

2.埋立工事の開始
 昭和52年、再び湖南中部流域下水道事務所に勤務することとなった。事務所の名前から「建設」の2文字が消えていて、将来は管理も所管する事務所になることを想像させた。
 浄化センターの敷地造成については当初計画の山土ではなく浄化センター沖合の湖底土砂を浚渫し埋め立てることと決定され、いよいよ工事発注の準備のためマリコンと呼ばれる海洋土木を得意とする業者から工事に伴う様々な課題
 ・特に慎重な施工が要求される護岸周辺の施工方法
 ・排砂管配置計画
 ・軟弱地盤対策
 ・浚渫に伴う濁水処理対策
などに対するヒヤリングを実施した。埋立に必要な土量は、将来、全体計画である102万トンの処理施設が完成したときに掘削と埋戻土量のバランスが取れるよう、埋立地内の一部は遊水池として残すこととした(残土処分で土を場外へ持ち出すことのないように考慮した。)。よって浚渫土量は260万立方メートルとし、浄化センター沖合の比較的砂質土の多い区域約500m四方を土取り場と定めた。入札の結果、臨海・株木・今井・西村の4者共同企業体が落札し施工することとなり、濁水処理に関しては扶桑建設工業が下請けとして参加することとなった。

 浚渫工事に伴う騒音対策および万が一の事故時の油流出防止対策として電動式ポンプ船が採用された。浚渫は大きく4ブロックに分けて施工され、そのブロックごとに濁水防止膜で完全に仕切って濁水の拡散を防止した。また矢板護岸周辺も完全に濁水防止膜で取り囲み、矢板ジョイントからの濁水流出に備えた。これらの対策により浚渫地周辺では濁水防止膜内ではSS濃度が上昇したものの周辺湖水への影響は見られなかった。
 当時の浚渫における濁水処理対策としては排砂管に高分子凝集剤を直接投入し、埋立地内での沈降を図る手法がとられていた。しかし、高分子凝集剤中にわずかに残存するアクリルアミドモノマーは発ガン性を有するといわれていて、琵琶湖訴訟の最中であり少しでも疑わしいものは使用しないとの方針で高分子凝集剤ではなく浄水過程で使用されるポリ塩化アルミニウム(PAC)を使用することとした。この考え方は後の下水汚泥処理の考え方にも踏襲され長らく琵琶湖流域下水道では塩鉄、石灰を用いての脱水手法が採用されることとなった。また、工事中の排水については法的な規制はなかったが一般的な処理方式では予測される排水濃度が高く、南湖ひいては琵琶湖への悪影響も考えられることから処理水の放流先を近江大橋下流まで持って行き、排水基準として瀬田川の環境基準値を準用することとした。

中間処理イメージ

 この排水基準をクリアするため採用されたのはPACによる3段階処理で、第1段は排砂管への直接注入(この方式は薬剤使用量が多く、ほとんど使用しなかった。)、第2段は既存の二重締切矢板を利用しての中間処理、最終段は日処理能力66,000m3/日の緩速撹拌池、沈殿池を有する余水処理施設を設けることとした。余水処理施設は処理によって発生する汚泥を遊水池内に貯留しなければならなくなることを想定して、最南部に鋼矢板で締め切って設置した。浚渫は基本24時間実施されるので、濁水処理も24時間態勢となり工事関係者が現地で寝起きし、常時監視を行ない、水質測定は手分析のほかpH、電気伝導度、DO、濁度、水温については自動測定器を設置し、そのデータはテレメーターで滋賀県の衛生環境センターに送り常時監視可能な体制をとった。また、使用するPACおよびpH調整用の苛性ソーダについては特別製の運搬船を作成し、対岸の大津から船で曳航して現地まで運んだ。

 凝集沈殿で発生する汚泥は将来の3次処理用地(浄化センター南西部、パークゴルフ場跡地)に返送し、埋立地内に封じ込める案とした。浚渫開始当初は埋立地も広く、濁水処理も順調に進んだが、後半になると陸地化された部分が多くなり、その結果、当初のように汚泥の返送もできなくなって汚泥で遊水池内が満杯となり今までの方法では汚水処理にも影響を与えかねない状況となった。そこで急遽、汚泥の天日乾燥床と濃縮貯留池を設置し、さらに濃縮した汚泥は機械脱水にかけ水処理側へ返流することの無いように計画した。
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