水行政の一元化はどこまで必要か
 

今年度の21世紀水倶楽部通常総会が開催され、そのあとに恒例となっている講演会は会員の仁井正夫氏(総会で理事に就任)による「水道、下水道について思うこと」の演題だった。

仁井氏は水道(廃棄物も)の技術者で、その分野をベースとして同じ水の静脈部分を受け持つ下水道とを比較しての論旨展開であったように感じた。さらには、水循環(基本法)の視点からの両水道の位置づけ(配布されたレジメをいま見ると、水道、下水道の一体運営論に関して、「健全な水循環」の課題、の二つが主要説明項目になっている)。
 わたしも従前から上下水道あるいは専門の河川を比較しての水論議を続けてきたので、氏の講演には肯けるところが多々あった。以下に、触発されての論点を繰り広げたい。

この拙論の表題の「水行政の一元化」だが、行政は水だけで回っているわけではない。だから、水循環基本法の当初の水基本法構想にあった、水だけのために地方自治の特例(水共同域における水の管理体制)を作ってまで一元化を図るのには無理があると思う。過去には下水道行政が中央政府二省に分割されていたが、下水道の処理場を旧厚生省から移管し、下水道行政の旧建設省への一元化がされた。この延長線上になるのか、中央省庁の水関係行政をまとめる水循環庁が水基本法の構想にあったが、この意味での水行政の一元化という目標は残っているのであろうか。

それよりも、下水道雨水排水と上下流関係になる河川事業とは旧河川局に下水道部が統合され新しい水管理・国土保全局(以下、水国土局と略す)が発足したことのほうが肝心で、結果は綿密な連携ができている(はずだ)。さらには河川の水質の面でも、同局の旧河川部門は河川水の質管理には法の規定があるが実力はなかったので、量質ともに統合の効果は出るのであろう。水国土局には砂防部ももともと所属していて河川の最上流から河口・海岸(一部)まで水行政の行政組織上の統合がなされた。同じ国土交通省の土地・水資源局にあった水資源部まで水国土局に統合されたのには当否が分かれるところだ。

上水道と下水道は言葉が似ているので、所管する地方自治体では両行政を上下水道局などに統合する例が多い。しかし、水道はきわめて公共的な財の供給事業だが、基本は水を売る「水商売」(リンク先拙文では商売に徹せよと説く)だ。下水道は工場排水処理との連想で、排出者責任制度が適用され費用負担も排出住民の下水道料金で賄われなければならないように見える。しかし、個人の排水は下水道の整備区域外ではし尿以外の雑排水は垂れ流しとなる(水濁法の適用を受けない)。それでは公共の水域の水質が損なわれるので、一部の区域を選択して公共が下水道整備をすることにより全体として水質改善を進めてきた。だから、きわめて公共的性格の強い事業(これも拙文、料金は受益の範囲内で取れ、と説く)なのだ。このように同じ「水道」という言葉がついていても性格が全く違うので、一元化・統合すべきということにはならないし、ふさわしくもないのであろう。さらには、事業の最適な運営方法の違いもある。水道事業は上記の観点から企業会計が当然ふさわしいが、その連想で下水道事業まで企業会計を徹底するのでは公共的目的を失念するおそれがある。公共事業ではあるが、完成後の運営でその成果(水質保全など)が左右されるし、運営コストも最大限低減されるように制度的な工夫が必要、ということまでであろう。

水循環基本法が成立・施行され、その基本計画も閣議決定された。いろいろと曲折があった末の、いわば水循環に関する精神法の誕生を見たわけである(水循環行政一元化にはならなかった)。水は地球上の気象・水文現象によって循環し、姿・場所を変えていく資源だが、「肝心」な現象としては 降水→河川流出あるいは地下水涵養→一部取水→排水(処理)→河川湖沼海域の水系への復帰→蒸散、ということになる。水の移動は量質を変化させながらになるが、それらの管理は水循環上肝要なものとなる。「肝心」から抜けるのは一部取水したあとの各水利用、ということになるのではないか?取水し利用したあと、水域に復帰させるときの質管理は肝要だが、途中で何に使おうが、それはその分野での関心にとどまるのであろう(もちろん個別の水道あるいは農業用水などの分野内では重要事項だ)。だから、水道取水・配水→下水道への排水という水循環は単に水の行方を辿る意味はあるが、河川の水循環上は取水地点、排水地点とその量質だけが肝要で、中途はブラックボックスでも構わない。

法律ができる以前にこの水循環が軽視されていたかというとそんなことはない。河川管理者が河川水の量質管理あるいは環境部局も排出水質の規制管理を行っていた。水行政の一元化がなくても必要なことは緊密な連絡のもと実施される。ただ、地下水の管理は地盤沈下防止の観点からしか行われず、きわめて強い私権(土地に付属する権利)が残され、地下水の資源としての管理は法的にできない状況だった。だから、この水循環基本法の誕生をこの地下水に対する公的管理の嚆矢として歓迎し、これからの展開の根拠としていこうとするのである。(以上の拙論は、仁井氏の講演内容に類似している部分もそうでない部分もある。また、筆者が前々から考えて論理展開していた部分と仁井氏の講演に触発されて、それらを補強した部分もある。いずれにせよ、文責は筆者にある)