「下水道のことを根本から考えてみませんか」下水道原論シリーズ第2話
 

下水道のことを根本から考えてみませんか(第2話)

 

[ 第2話では、人の生活と水のかかわり、排水に関する権利、そこから出発して排水に関する個人と公共の役割とか責任について考えます。]

本論

第一章 人の生活と排水

人が生活をするときは必ず水を使い、何がしかの捨てる水が出てきます。以下いくつかのケースについて見てみましょう。

 

(一) 山登りした場合

単独で、または少人数で山歩きした時のことを考えましょう。

所要の行程を踏破して野営地に着きます。テントを張って、水場を探し、水を汲みます。お湯を沸かし、米をとぎ野菜を洗って食事を作リます。食事のあとは食器、コッフェルを洗い、翌朝に備えておきます。洗い水は水場の下流に流すか、下草の生えている地面に散水します。

再び水場に戻って水を汲み、タオルを絞って汗にまみれた体を拭います。時には簡単な洗濯もすることがあります。

今日の行程を振返り、明日の行程の作戦を練るなどして時を過し、早目に寝袋にもぐり込みます。おっと、その前に生理的要求を満しておかなければなりません。懐中電灯とスコップを持って外に出ます。笹籔を掻き分けて人目につかない平な場所を探し、スコップで小さな穴を掘リます。星空を仰ぎながら用を済ませたあとは土を被ぶせて跡始末をしておきます。テントに戻って壮快な気分で眠りにつきます。翌朝は出発前に滞在中に出たゴミも燃やすか土中に埋めます。

とてつもなく大きな自然環境の中で人間が単純に生活する場合でも、最低限この程度の水の使用とか排水という行為が必要であり、排泄物やゴミの始末も必要となります。言ってみれば生存そのものに伴う極限の生活行為であり、自然を相手にしてこの程度の行為は誰にでも許されるものでしょう。そしてその行為のために代償が求められるというようなことはないのです。

 

(二) 山奥の一軒家の場合

次に、山の中の一軒家に家族で住むことを考えます。

山問の平地に茅葺き屋根の母家を構え、親・子・孫の三代の七〜八人が農業と林業で生計を立てている家族の生活を想定します。

井戸を掘っても水は出ないから、沢の水を上流から掛樋で導水し、水ガメに流し込み、一旦貯めこんでから越流させています。飲用水はもちろん炊事用、風呂用、洗濯用の水も、皆この水ガメから汲み出して使います。

米の研ぎ水は庭先の野菜畑に撒きますが、その他の排水はタコ壷のような穴を掘って浸み込ませています。越流した掛樋の水は山道に沿って掘られた溝を流れ、沢に落ちています。便所は別棟で造ってあり、糞便は大きな便槽に貯めています。時々汲取って山の畑で作る作物の下肥としています。厨芥は堆肥作りに使い、紙屑は焼却炉で燃やしています。

周囲の目に見える範囲に隣家とてありませんから、こんな生活でも環境を乱すことはないのです。水に関して言えば自由に水を自然から摂り、使い終えた水は自由に捨てられる生活です。

 

(三) 田圃の中に点在する農家の場合

今度は、もう少し、平地に降りて田圃の中に点在する農家のことを考えます。

1000u(300)ほどの敷地は、山から吹 き降す季節風の直撃を避けるため、周囲をぐるりと背の高い木立で囲い、300uくらいの庭を南に配して母屋が建てられ、脇には納屋、作業小屋、車庫が並んでいます。

昔は手押しポンプだった井戸は今では電動ポンプに替えられ、屋敷内の各所に配管されて、水道並みとなり、蛇口をひねればどこででも水が使える様になっています。台所でも、風呂場でも、車庫でも、そしてトイレでさえも。

トイレはもちろん水洗便所に切換えられて、屋敷の片隅に埋められたし尿浄化槽で処理されています。浄化槽の処理水は、台所や風呂場の排水と一緒にして一旦素掘りの溜め池に貯め、越流させて屋敷裏を流れる小川に落し込んでいます。

この家の場合も、家族は与えられた環境と空問を使って自由に取水と排水を行っているのです。

 

以上の三つの場合に見られるように、人間は一定以上の空間と環境が与えられていれば、自然の浄化力を上手に活用して生活することができ、しかも与えられた環境を破壊してしまうようなことは滅多にないのです。

最後の田圃の中の家の場合、井戸ポンプ、浄化槽のために投資を行い、その維持管理のために、何がしかの費用は掛けていますが、それだけの快適性を得ているのだから当然の事でしょう。

いずれにしても人間は、生存に必要な最低限の水を自由に得、使った水を自由に捨てる権利を持っているのです。これは基本的生存権の一つと考えることができましょう。

 

第二章 下水とその発生

 

(一) 下水

下水道法の定義にあるように「下水」は「生活若しくは事業(耕作の事業を除く)に起因し、若しくは附随する廃水(以下汚水という)又は雨水をいう」のであり、   下水=汚水+雨水   ということです。

汚水は、更に仕分けると、@し尿(希釈したものを含む)、A家庭雑排水(台所排水、浴室排水、洗面排水など)、B事業場排水(営業排水、工場排水)に分割できます。このうち@とAは生活に起因し、Bは事業に起因します。

生活に起因する汚水は、気候等に左右されますが、一般に国民の文化程度が高まり、生活の水準が高くなると水量が増えるとされています。つまり、人の生存に必要な最小限の排水のほかにいわば贅沢分ともいうべき排水が含まれているわけです。

ここでは仮に、前者を「基礎生活汚水量」、後者を「付加生活汚水量」と呼ぶことにします。

これより、    汚水=基礎生活汚水量+付加生活汚水量+事業場廃水    となります。

雨水には、降雨水のほか、雪及び融雪水など、下水道区域内に降る全ての降水が含まれます。

 

(二) 行為としての「排水」

ある土地に人が住み、生活すると、下水が発生します。この下水を生活の場から排除する行為を「排水」と言います。この排水行為は前述のように少なくとも量的にみる限り万人に等しく与えられている基本的権利と見なすことができます。

もし使用した水、降ってきた水を排除することが許されないならば、人は正常な形態で生活できないし、水の循環系統にも多大な影響や支障を与えるからです。

古今東西、いかに無謀な為政者であっても下水の排除それ自体を禁じた者はいません。

奈良県大和郡山市には環濠集落という古代集落の遺跡があります。この集落では数qの土地の周辺に環状に濠を巡らして水を湛えています。古代、集落間の係争が激しい時代、この濠は外敵の侵入を防ぐために重要な役目があったのですが、その他にも周辺農地を潤す灌概用貯水池として、また集落に降った降水や集落で発生した汚水を排除する先としての役割が大きかったようです。

古代都市の平城京や平安京でも碁盤目状に区画された大路、小路には側溝が掘られ、前者にあっては秋篠川や佐保川、後者にあっては堀川や西高瀬川などを経て、大和川や淀川などの大河川と結び付けられていました。排水には万全を期していたと思われます。

くだって、大坂城を築いた太閤秀吉は、城下主要部分に本格的な石組み造り溝きょを築造して排水対策を講じています。今も「太閤下水」として排水の役目を充分に果たしているのです。

江戸においても、徳川期に入って城下町が拡大するにつれ、下水の排水は大きな間題となったとみえ、町奉行の指導によって、下町では地主や家主たちが溝きょ (ドブ)の整備を行っています。このためもあって、1719世紀、江戸は世界の大都市の中で稀にみる清潔な都市だったといいます。

いずれにせよ、その時その時、当事者が認識していたかどうかは別にして、何の疑いもなく至極当然に個人は排水を行い、為政者はそれを保証していたといえます。

 

(三) 「排水権」とでも言うべきもの

前述の下水の中身の仕分けのうち、@のし尿については古来より日本では肥料としての価値が高く、一時は流通商品でさえあったため、大都会でさえも別途に処分されていました。

従って個人は欧米諸国のように、し尿の処分には困るということはなく、生活雑排水と雨水さえ排除できれば良かったわけです。そして、その行為は、排水権として公やけに認められ、明治以降も民法220条ほかの中に取入れられているのです。

こうした歴史的な背景から考えて「個人はわが家(土地)に降った雨水とわが家で使った水は、地中浸透を含めて、系外に排水する権利を与えられている」ということができます。

つまり、人は「量」としての排水を地形地質に応じて流す権利があり、それは国民すべてに等しく与えられた基本的権利ともいうべきものなのです。

 

第三章 下水道の機能とその評価

 

個人が基本的な権利として行う排水行為の都市・集落における受け皿は下水道です。

ここで、わが国で目下その整備が急がれている近代的下水道について、機能面を中心に公共と個人の係りのあり方に関して若干の考察を行っておくことにしましよう。

 

(一) 下水道の機能

大雑把にいって、下水道には次の四つの機能があります。

@下水を集める(受け取る)

A下水を速やかに流下させる。

B下水を処理し安全なものにする。

C公共用水域に放流する。

@は排水設備と桝がこの機能を果たし、Aは管きょが、Bは処理場が、Cは放流きょと吐き口が、それぞれの機能を果たしています。

 

(二) 機能の評価

これらの機能を、個人(住民)の立場から評価すれば次の様になります。

@によって個人は水洗便所汚水を速やかに流すことができ、台所、浴室、洗面所で使った排水を流し去ることができ、家屋内での汚水の停滞による不潔状態、悪臭の発生を防ぐことができ、快適な生活を享受することができます。

また、大抵の降雨であれば、敷地内に降った雨水は、Aによって敷地の外に排出することができ、浸水による不安感、不快感を味あわずに済みますし、家財の流出とか浸潤による価値低下を防止することができます。更には非衛生状況を防ぎ、生命の保全を図ることができるのです。

一ヵ所に集められた汚水はBで浄化処理することによって、有機性の腐敗物質や病原菌などを除去消滅させ、安全無害な水に変えます。浄化処理に伴って発生する汚泥も併せて処理し、安定した形にして処分するか、有価資源を回収し利用に振向けるのです。

この機能のお陰で個人は公共用水域の水質汚濁による不快感、釣・ボートなどのレクリエーション阻害、悪臭、漁獲高減少、まずい水、臭い水などの弊害から免れることができるのです。

処理された汚水及び集められた雨水はそのままに貯めて置くことはできませんので、河川や湖沼、海域などの公共用水域に排除しなければなりません。これがCの機能となりますが、もしこの機能がないと下水道全体の機能を失うことにもなるのです。個人の立場からみても極めて重要な機能であるといえます。

 

第四章 機能評価に立脚した費用負担

 

下水道は公共財といいながら、特定の個人がその利便性を享受する部分の多い施設でもあります。従って下水道の設置及び管理に要する費用は、個人と公共とが所定の割合で負担することが妥当と考えられています。

すなわち、下水道の機能を享受するのはいずれにしても個人なのですが、個人といっても()特定される個人(純然たる個人)と、()特定できない個人(不特定多数の個人) とがありますので、両者を区別して考えわけです。

そこで、次に下水道の設置、管理に要する費用の負担のあり方を下水道の機能とその機能の効用を享受する者が誰であるのか、どちらの「個人」であるのかという観点から整理しておくことにします。

 

(一) 排出権からみた負担分

前記@、A、Cの機能については個人の責任で費用を負担するというより、個人には排水権があるわけですから、公共が責任をもって負担すべき部分です。つまり、各種の政策(無策も含めて)を実施した結果、人々が高密度に集まり、自然浄化力がなくなって、そのために本来個人が自由に行使し得た排水権を制限してしまったわけだからです。公共はその「制限」の代償として、これを補完する必要があるのです。

 

(二) 汚染の原因者としての負担分

一方、前記Bの機能については、本来自然の浄化力があれぽ自由に排出しうる汚濁負荷の分(基礎汚濁負荷分)を除き、それを上回る汚濁負荷はいわば余剰な贅沢分ともいうべき負荷ですから、これを処理するための費用は特定の個人が責任をもって負担すべきであると考えるのです。

 

(三) 水質汚濁防止効果からみた負担分

水質汚濁現象は特定の個人にのみ害を及ぼすのではなくて、不特定多数の個人に不利益をもたらすものであり、それを防止するということは不特定多数の個人に利益をもたらすわけですから、その部分については不特定多数の個人を代表する形で公共が負担すべきものです。つまり、下水処理に要する費用のうち、水質汚濁防止に寄与する一定の部分については公費をもって負担するのが妥当であると考えます。

なお、水質汚濁の影響の広域性あるいは地域性を勘案すると、公費についても国費と地方費で分担する必要があり、地方費については更に権限行使者たる人格を持つ都道府県ならびに市町村の二つに分担させる必要があります。このため、それぞれの負担区分は所定のルールのもとに明確にしておくべきです。これについては別途に論じることにします。

 

(四) 費用負担の基本原則

以上いろいろ述べて来たことを総括すると次のようになります。

下水道の設置管理に要する費用は、雨水系にせよ、汚水系にせよ、発生した下水を集めて公共用水域等に放流する部分については公共が負担し、汚水の処理に要する費用は公共と個人が分担して負担するのが妥当であると考えます。

        

これが筆者の考える費用負担の基本原則です。図で示せば図―2の上段の様になります。

なお、公共と個人の負担割合については、次章(第五章)で詳しく検討します。

 

(2話:おわり)

 

安藤茂

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