1, 各種焼却炉の検討から立型多段炉の導入へ

 下水道の普及により発生する汚泥が増大し、生ごみ量の増加と同様にその処理処分が大きな問題になる時代になりました。この昭和30年代(1955)は環境問題が取り上げられ、北海道大学や京都大学で衛生工学が発足しましたし、上下水道の専門コンサルも創設されました。環境問題の幕開けです。また、下水汚泥の焼却処理は昭和30年ごろから、東京都や大阪市などの大都市で計画されだしました。昭和37年(1962)には川崎市入江崎処理場でわが国初の汚泥焼却炉(気流乾燥焼却炉)が設置されました。昭和39年(1964)にこの方式は吹田市正雀処理場、1967年に豊橋市羽根井処理場に設置されましたがその後、実施例はあまりありません。
 昭和39年(1964)には一宮市東部処理場、名古屋市山崎処理場で立型多段焼却炉が採用され,以後、実施例が増大し昭和50年度末(1970)には44箇所に設置されました。立型多段炉は5300トン/日と小型から大型まで建設されています。大阪市では昭和42(1967)より焼却炉灰をレンガや陶管等の材料として利用する調査を開始しました。
 昭和41(1966)には仙台市南蒲生処理場で流動砂を用いる流動焼却炉の実験が開始しされました。
 昭和43年(1968)から攪拌羽付き回転乾燥機と組み合わせた、流動砂を用いずに汚泥単独で流動燃焼処理する、噴流式汚泥焼却炉が開発され、岩国市のし尿処理汚泥の焼却や富士フイルムの抄紙汚泥の焼却処理に採用されました。(無砂式流動炉)
 昭和48年(1973)には茨城県深芝処理場で石灰汚泥を対象に多段炉、流動炉、噴流炉の比較実験が実施され、比較的NOxの発生の少ない多段炉が採用されました。当時は流動炉の燃焼時間が短くNOxの発生も多くなっていましたが、昭和50年には流動炉内での2段燃焼による抑制燃焼が確立され、NOxの発生は大幅に改善されました。その結果、多段炉に代わり流動炉が主流になりました。