─小中学校時代の東横線(港北区の浸水を中心に)─        山下 博
 2014.10      
 横浜市の戦後は、昭和21年3月の戦災復興土地区画整理事業として、再建のスタートを切りました。市民の復興意欲も高まり、国際港湾都市にふさわしい街づくりをめざし「横浜国際港都建設法」が昭和25年10月に施行され、総合計画の決定は昭和32年まで待つことにはなりましたが、当時の復興事業に明るい展望を与えました。
 昭和24年に生まれた私が、その当時の多くを思い出すことは難しいことですが、小中学校時代の、横浜市の下水道(雨水対策)思い出してみます。
 横浜市の事業は昭和20年代の後段にあっても極度の財政難であったため、昭和30年に入ってから本格的な整備に入って、浸水被害の著しく、工業地帯として発展しだした鶴見川下流の鶴見区を早急に整備することとして動き出しました。ここの整備は低地であり、浸水が多いことから先輩下水道マンからよく言われていた言葉に「アヒルの泳ぐ街に下水道」というものがありました。その他の市内の中心地域も昭和33年まで多くの地域の復興が進んできております。
しかし港北区とりわけ東横線の日吉駅、綱島駅、大倉山駅そして私が生まれ育った菊名駅のある東京丸子横浜線沿いのインフラは周辺市街地として事業が進まず、昭和30年から20年間という長い事業区間がありました。そんな中、港北区では下水道整備は進まないが浸水対策には力を入れ、浸水の激しい地域にポンプ場を建設し河川放流することとし、開発による浸水被害を抑えるための事業が始まりました。具体的には、東横線に関係するポンプ場は日吉町にあった日吉ポンプ場、綱島町にあった綱島第一第二ポンプ場、大倉山にある大曾根ポンプ場、菊名ポンプ場が建設されました。排除能力は現在の計画に比べてちいさいとは言えますが、浸水常習地帯の被害の回数を抑えることができ市民に喜ばれていました。
港北処理区の幹線整備は昭和37年から菊名排水路、北綱島排水路、東横線横断に凍結工法採用、太尾幹線、北綱島幹線、日吉幹線、南綱島幹線、大曽根幹線等を昭和37年から45年までに港北処理場の建設より先行して事業化してきています。昭和47年に市内の5番目に運転開始した港北処理場は私が菊名に生まれて23年経過してのスタートでありますが、
一方の雨水対策としてのポンプ場、幹線は強力に進めており、それぞれ東横線の駅名の多くが幹線のネームとなっています。(勿論、地名が先だという人が普通ですが)
 ところで昭和20年代後半、30年代を思い出すと家々の周りには、大中小の水路があり、これは戦前からあった田畑の用排水として利用されていた物であり、30年代の高度成長あるいは人口の増加により田、畑は工場用地、団地造成として開発されたものが多くあり、排水路として転用してきました。小さい素掘りの水路から、コンクリート板を使った大きい水路(この柵渠は現在でも市内郊外部の分流地区では多く残っています)、支川等が最終的には鶴見川に流入しています。合流地区の多い港北処理区は大きな柵渠に本管であるヒューム管を埋設しているところが多く、出来上がりは車道、歩道、緑道などにしている例が大半でした。当時、車道の幅員が狭いため、工事後の利用は道以外にはできませんでした。
余談になりますが、30年代に、広範囲に宅地用地を1m程度盛り上げた大きな団地造成が大倉山駅近辺に建設されました。この地域は、鶴見川の堤防よりも大分低い田んぼでしたから各住宅は1m盛り上げてあるので、宅地建物には浸水することは少ないのですが、住宅のまえの道路はかなり浸水することがありました。そのため多くのお宅には玄関口、庭先にボートを用意していた家が相当ありました。住宅から、路面冠水の少ないところまでボートに乗って、会社、学校、買い物、病院等に出かけていく準備ができていました。
中学生の私には、当時の開発協議、指導内容はどのようになっているのか知りたいとは思いませんでしたが、今なら興味がある分野ではありますけれども。
 もうひとつ、中学生の経験では、学校の木造校舎の床上浸水が度々あり、一度は、床上浸水が引けた後、床を掃除し消毒剤の散布がすむまで3日休校だったことがあります。休校明けの朝でも消毒剤がかなり刺激的であったように記憶しています。一学年がひとクラス60人で14クラスあるようなマンモス市立中学校でしたけど、浸水の経験、そして先生、職員方の活躍をいつまでも覚えています。
 最後に忘れられない菊名駅で度々起こった浸水について報告します。菊名駅から一つ横浜駅に向かったところに妙蓮寺駅があります。ここに大きな菊名池があり、聴いたところでは、平安時代のころから灌漑用水として貯め、菊名、大豆戸村の用水路を経て鶴見川に流れていました。その菊名池と下流の鶴見川のちょうど中間のところに、横浜線の菊名駅と東横線の菊名駅が出来、用水路は線路の下を流れる構造で数十年も経過してきました。  昭和7年には東横線が全線開通で妙蓮寺駅の周辺の広い範囲で都市化が進み、山林、田畑の開発、宅地化が進み雨水の菊名池への流入と鶴見川までの用水路の断面不足がありました。それ以降も開発はとどまることなく住宅街はますます広がって、私もそこで出生しております。その後昭和30年代、私の小中学生の時に何度となく菊名駅が浸水で度々運行が止まり、渋谷・大倉山駅、そして妙蓮寺と桜木町も同じくピストン運転でした。菊名駅では鉄道は動かず乗降客は一部バスはありましたが、ほとんど菊名妙蓮寺間は線路の上を歩き、他の人は旧綱島街道を歩いていました。我が家は旧綱島街道沿いでしたので、雨がやんでも復旧はしないため長い時間この景色は家の中から見えました。この問題を解決したのが、私が市役所に入ってからのことで横浜市下水道局の事業で解決しています。菊名合流雨水幹線として菊名池から1800mmでスタートし、3600mmのトンネル構造で港北水再生センターまで頑張って活躍しています。