千葉県匝瑳(そうさ)での水回りの記憶 土屋 潔 
                                                  2014.10         
 私は、終戦直後の第一次ベビーブームの真っ只中、昭和23年の生まれです。6人兄弟の末っ子で、本国日本で生まれたのは私一人で兄姉たちは中国撫順生まれなのです。
 戦後は両親の生まれ育った千葉県の匝瑳郡野栄町(そうさぐんのさかまち)という田舎の農村地帯に引き上げてきましたので、私は小学校に入学する直前まではこの地で暮らしていました。
 当時は、一部の国民を除いて、非常に貧しい暮らしでありましたが、さいわい農村でしたので、米と、野菜にはありつけたように記憶しています。
 まだ、5〜6歳の頃だったと思うのですが、私が「はしか」にかかって寝ているときに、障子越しに見た母(6年前に他界)の記憶が今でも忘れられません。
 北側に位置していた便所の汲み取り口から、手作りの長い柄のついた柄杓で、二つの肥え桶にし尿を汲むんです。そして、天秤棒の両端に肥え桶を吊るし、小さな体で器用に担いで、エッチラオッチラ前の畑に下肥を撒くんです。これは、何処の家でも見られる普通の光景だったんですが、小さなころの思い出というといつもこのことが思い出されます。
その下肥を撒いて育った野菜を、食べるのですがこれには「回虫(寄生虫)]の卵が付着しており、経口感染で体の中に入り成長するんです。多分このころだったと記憶していますが、庭で「ウンチ」をしていたときに、けつの穴から何かが出てきたような気がして、指で引っ張り出したら15cm〜20cmくらい(子どもの頃の記憶なので、とてつもなく長いミミズのような虫)の真っ白な回虫が出てきて、泣きながら母親に訴えたのを覚えています。
 余談ですが、この頃の子ども達は、サナダ虫や回虫をお腹の中に飼っているのは珍しくなかったので、「ギョウチュウ検査」の結果、虫下し?(栄養不足のためのビタミン補給という説もあるが)のため肝油ドロップという(当時は非常にまずかったような気がする)ものを飲まされました。
 私の地方では便所(北側)の脇には、難を転ずるという験担ぎで「南天(難転)の木」が植えられていたことを記憶しています。
便器は床板を切ったところに木の枠が嵌められており、下の便ツボは丸見えで、覗くと蛆虫がグニャグニャいるのが見えました。正面の壁下には、掃き出し用の小さな引違戸(15cm×45cmくらい)があり、「ちり紙」置きは、木製か菓子の空箱か何かで、ちり紙(グレーでガサガサ、ゴソゴソな肌触り)というような上等なものは余り使えず、新聞紙を切ったものが入れられており、使うたびに両手で揉んでやわらかくして尻を拭いていました。(何という貧しい暮らしだったんですかね〜)
台所は、土間に置かれた流し台で、野菜を洗ったり、お米をといだりして、同じ土間に作られていた釜戸で「フイゴ」を使って火をおこし、ご飯を炊いていました。

 庭の一角には、大きな桶が台の上に載っており、桶の中には下から大きめな石〜小石・川砂が何層かに積まれ、一番上にシュロの皮(繊維)が敷かれておりました。近くの川から汲んできた水を上から流してろ過し、桶の下のほうに設置されていた蛇口(木の栓)から流れ出る水を使っていたような記憶があります。つるべ式の井戸が有りましたが、自分の家のものか、本家のものだったのか記憶は余り定かじゃありません。
洗濯は、母が「たらい」に洗濯板と大きい固形石鹸?で、家族みんなの洗濯をしていたわけですから、真冬は手がアカギレでぼろぼろになっていました。
 それでも、大人になると親の大恩を忘れてしまうんですね〜
(親孝行したいときには親は無し)

 お風呂はというと、外の小屋の中に木製でできた風呂があり、お湯の上に浮かせてあるスノコ状の板の上に乗り、バランスを崩さないようにそぉ〜っと沈んで入りましたが、たまに、風呂釜に触れて熱い思いをしたことを覚えています。

 いずれにしても、現代は何もかもが便利になり、トイレ一つをとっても、今ではウォッシュレット付きでなければ満足に用を足せなくなっている自分です。

 心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくってみました。