昭和40年代後半〜50年代の想い出 「千葉県我孫子市にて(あぁ手賀沼)」     
                    齋藤 均   2021.7
 齋藤は、1966(昭和41)年生まれ。東海道新幹線が出来たのも生前、第1回東京オリンピックも生前です。当時、千葉県我孫子市の手賀沼から「5〜6歳児の足で」徒歩5分程度の新興住宅地に住んでいました。手賀沼の汚染が最大級だった頃です。齋藤が生まれる頃が、日本が一番「汚れていた時期」、1967(昭和42)年の国会が「公害国会」と言われて有名です。
 自宅には都市ガスで沸かす風呂があったが、当時は銭湯も近隣にありました。家長である父が「一番湯」を使うという感じ。自宅風呂は湯船と洗い場だけでシャワー無し。風呂からの上がり湯は「湯船から汲んだお湯」。外で遊び、泥だらけで帰宅しても「父は未帰宅」。お風呂を使うと「湯船のお湯が汚れるから」、子供は銭湯に行きました。忘れたが、当時100円で「子供の入浴料金+コーヒー牛乳」だったと思います。 駄菓子屋で流通するメインが「10円玉」なので、銀色の100円玉を母から貰うと、ピカピカ光り嬉しかった。

 トイレは和式水洗だったが、家庭からの雑排水は、道路側溝を通じ手賀沼に直接流れ込んでいたようです。洗濯排水も「未処理」で側溝「ドブ」に流れていました。各家庭が洗濯をする時間帯は大体同じ様で、多摩川の川面が泡だった写真の様にドブが集まった場所は「泡立って」いました。
 時々「隣組での共同作業」と言って、ドブ掃除がありました。N・P含有+高濃度BODの雑排水が流れるドブなので、ドブの「潤辺」に深緑色のコケが生えていました。それを長柄のブラシでこすり落とすのがドブ掃除。現在で言えば、下水処理場の終沈越流側溝の水草を落とす感じです。
 さて、手賀沼に遊びに行くとヘドロ?で臭かった。その臭い泥の中に外来種のアメリカザリガニが生息しており、ザリガニ釣りを楽しんだものです。 手賀沼公園には貸ボート屋があり、友人達と手漕ぎボートで漕ぎだしたところ、公園の対岸にてボート本体とオールが「ヘドロ」にはまり動けなくなり、救助された事もありました。 

 そんな手賀沼だから、ヘドロの様な泥の上に、背の高いアシが生い茂った状況。アシで見通しが悪いから「廃棄物」も大量不法投棄されていました。「震える舌」と言う映画があります。手賀沼同様の場所?に遊びに行った少女が「泥の中」で指先を怪我し、破傷風になって苦しむという「ドキュメンタリー映画」です。同様の事件が齋藤の通う小学校でも発生し、すぐに担任の先生から「手賀沼のほとりで遊んではいけません」とお達しが出たのも覚えています。その直後、手賀沼湖畔に簡単に入っていけない様に「有刺鉄線」が張り巡らされました。齋藤の小学校の場合は、ヘドロの中に捨ててあった「空き缶」による傷が原因でした。
    「Wikipedia:震える舌

 つまり、この情景も「リアルタイム」で経験しています。
 さて、家は新興住宅地にあるので、ドラえもんの土管が造成中の土地「いわゆる原っぱ」に積み上げてあり、また幼少期に見たテレビアニメもリアルタイムで楽しんでいました。オリンピックを機にカラーテレビを購入した友人宅に上がりこんでは、夕食までの夕方の時間、ドラえもんを視聴してました。家が建つ前の空き地には「土管」が積んであったし、主人公の「のび太」が小学校高学年らしいので、当時の齋藤は「のび太」がお兄さんでした。今「2021(令和3)年」から、約45年前の話です。

後日談1
日本下水道事業団JSに入社した新人時代「1992(平成4)年」。齋藤はJS研修部で「管きょT」の講習を受けました。当時の研修部長が星隈保夫さん、講師がJSの中沢均さんでした。同じ講習班に「千葉県白井町(現;白井市)」の方が居て、「流域関連公共下水道」を建設する事になったから受講に来た、と言っていました。一緒にJS技術開発研修本部の周辺を測量しまわって、管きょの設計演習をしたものです。それから約30年。現在の手賀沼は「汚濁湖沼ワースト1」の座を譲り渡せたそうです。

後日談2

現在の手賀沼は、最悪の外来性侵略的植物;ナガエツルノゲイトウとオオバナミズキンバイにより、生態系が破壊されているそうです。水環境が多少改善されて一難去ったと思ったら、また一難ですね。かわいそうな手賀沼・・・・。
  YouTube:「地球上で最悪の”侵略的植物”」