─水回りの思い出  大阪郊外─        廣本 真治郎
 2014.10      
 1964年、私が小学1年生の時に前回の東京オリンピックが開催された。街の至るところで三波春夫の東京五輪音頭が流れ、運動会でも東京五輪音頭で踊りました。そのお陰で、今だに口ずさむことができます。
半世紀前の「水回り」事情について、あまり良く覚えていないのですが、昔を懐かしみながら回想してみることにします。

・生ごみの収集システムは既にあった
回想してみますと言いながら、自分の家の生ごみをどのように処理していたのか、全く記憶がないのです。おふくろが適当に生ごみを収集ステーションに出していたのか、それとも庭に埋めていたのか。しかしながら近所に立っていた高層住宅に住む友達の家に遊びに行った時、各階の隅にゴミを落とすシュートのようなものがあったことを記憶してるので、既にゴミを収集運搬するシステムはあったのではないかと思います。

・ヤンチャな小僧程よく肥溜めに落ちた
 私が住んでいたところは、大阪の郊外の碁盤の目状に区画された新興住宅地であったので、肥溜めはなかったが、すぐ近くは畑や田んぼだらけで、ご多分に漏れず肥溜めがあちこちにありました。天秤棒で桶に入れたし尿を運ぶおじさんの姿も覚えています。
ところで、写生会や校外学習の様な学校行事があると、決まってヤンチャ小僧が先生の注意を聞く暇もなく走り出し、肥溜めに落ち全身糞まみれになり、しばらくの間誰もその君に近寄りませんでした。
我が家のトイレは、汲み取り式で1ヶ月か2ヶ月おきくらいにバキュームカーが来て、まず便槽をかき回して、しばらくしてから汲み取っていたものだから、その匂いが。。。。。

・生活雑排水はドブへ
 台所や風呂からの排水は、ドブと呼んでいた側溝に垂れ流していた。家の前のドブは幅30か50cm程度で深さもせいぜい50か60cm程度であったと思います。それぞれの家の前のドブは、住宅地のほぼ真ん中を走る道路の淵に設置された幅1m、深さ1m程度の少し規模の大きなドブにつながっていました。その少し大きなドブにはアメリカザリガニ等の生き物が居たり、部分的に暗渠になっていたものだから、ワンパク小僧にとっては格好の遊び場でした。探検家になった気分で、暗渠の奥の方まで行ってちょうど顔を上げたところを兄に見つかり、親に告げ口をされこっぴどく叱られたことを覚えています。今の私なら、硫化水素による中毒や酸欠で死ぬぞと注意しますが。

・当時の田舎の様子
 1968年、小学5年生の夏、岡山県の中山間部に住んでいた祖父が亡くなり、夏休みということもあり田舎に帰りました。
田舎の家結構大きく、槍や鎧の他お籠まで時代を忍ばせるものが色々とありました。仏間には、大きな仏壇が有りその中に数え切れない程の位牌があり、それだけでも十分恐怖心が煽られ、なるべく近寄らないようにしていました。
当時、田舎では土葬が行われており、祖父の柩を入れるための墓穴を掘っている様子をいとこと一緒に見ていると、なんと頭蓋骨がコロンと出てきたのです。腰が抜けそうなほど驚いた二人は、みんなのいる家の中に転げるように必死で走って帰ったことを覚えています。
無事、葬儀が終わった後、祖母が寂しいだろうということで夏休み中、田舎に居ることになったのですが、便所に行こうと思えば、仏間の前の廊下を通らなくてはならないし、その廊下からはお墓が見えるし、おまけに便所は母屋の外だし、怖くてたまらなかったことを覚えています。

・田舎の上下水道
もちろん、田舎に上下水道などが来ているはずもありません。水は母屋から4〜50mほど離れた井戸から炊事、選択、風呂に使う水を何度も何度も運んでいました。
また、台所の外に深さはわかりませんが、2〜3m角程度の水槽のようなものがあり、台所排水等を流していたようです。
葬儀の際にお参りに来て頂いた方々に振舞った食事の残飯も捨てられ、それらがぷかぷか浮いていました。
汲み取り便所に溜まったし尿と一緒に、雑排水も田畑に利用されていたのではないかと思います。

・怖いお話(その2)
 1972年、16歳の春、和歌山県御坊市にある和歌山工業高等専門学校に入学しました。学校は海に面しておりとても環境のいいところにありました。
入学して間もない頃、放課後部活でテニスの練習をしていると、海の方から煙が黙々と、おまけに何とも言えない嫌な臭いが風に乗ってこちらの方に向かってきたことがありました。テニス部の仲間と何だろうと思って、練習を中断して海の方に行ってみると、黒い服を着た人の一団が。
わずか40年程前、この地方では海岸で火葬の儀式を行っていたんですね。
このように、過去を回想してみると、改めてこの30年から50年の間に、「水回り」のみならず、あらゆる面で大きな変化があったんだと再認識できました。