6,便所(トイレ)                             水回り昭和の記録
洋の東西を問わず、人の排泄行為は歴史的変遷が結構記録に残されており、沢山の書物や論文が残されている。現在でも時々新しい書籍が出版されている。しかし、ここではわたくしが実際に体験したことを中心に記録しておく。
先般、小説を読んでいたら、便所について以下の様な記述があった。

弥生時代の倭国を扱った小説:「日御子」(帚木逢生)による
[後漢時代、楽浪郡から首都洛陽への倭の伊都国朝献使節たちの旅の途中で]

途中の駅亭で用足しをした田持(使節従者)と針(使譯=通訳)は、大小便で分かれているのに驚いた。小便のほうは、一度に五人は並んでできる。大便を済ませた田持は、穴が深いのか、大して臭くないのに感心する。しかも尻を拭うための縄が丁度良い長さに切られて積まれていると言う。これまで宿舎で利用した厠に置かれていたのは、木片か枯葉の類で倭国と大差なかった。
厠の外には水をいれた大瓶が備え付けられ、杓で手を洗うようになっていた。
「おい、あそこにある小屋を見てきたが、何だと思う」
厠の外をうろついていた田持が訊く。厠の裏には花の咲く低い植栽があり、その先は広々とした畑が続く。農民が三人畑を耕していた。田持が指さしたのは、畑と植栽の境に建てられた小屋だ。
「肥取り小屋だよ。厠にたまったものは、あそこまで流れていって、そこで汲み取られる。地面の下の穴は、何段階にも分かれているのだろう。小屋に届くころには、古くなってこなれている。畑にもすぐ運んでいける」
まっすぐでだだっ広く、中央が盛り上げられた街道、ニ層や三層の駅亭の建物にも驚かされる。しかし本当に感心すべきなのは、見えない箇所の工夫なのだ。

便所は昔もいまも基本的に変わってはいない様だ。
5-1  農家の便所(別棟)
(1) 農家の便所(別棟)・・・図
わたくしの母親の実家は甲州街道沿い日野宿本町にある中規模農家であった。家は中央線日野駅のほど近くにあり、すぐ側の盛土の上に敷かれた鉄路を結構頻繁に電車・汽車が往来した。列車が走りすぎると、その警笛が聞こえ、車輪の振動が感じられるようなところであった。田畑(でんぱた)は近郊各所にあり、従姉弟達のところに遊びに行くとよく畑に連れて行かれ、簡単な農作業を手伝わされた。屋敷は母屋といくつかの別棟からなり、それぞれが茅葺屋根であった。別棟は納屋と作業道具倉庫、外便所、外風呂であった。それらが敷地中央の作業用の広場(庭)を囲んで立てられていた。井戸は屋敷の片隅にあり、水汲みの効率を考えてお風呂小屋はその近場にあった。母屋にも内便所はあったようだが使用したことはない。母屋の屋根裏には蚕の飼育場があり、季節によっては蚕が桑の葉を食む驟雨の様な音が寝所まで聞こえた。
さて、別棟になっている外便所であるが奥行き4尺X 横幅1間半(1.2m X 2.7m)角ぐらいの小屋を3つに分け、一つは大便所、一つは小便所、もう一つは貯留便槽室として使っていた。便貯留槽は畑にまく肥料として糞尿を利用する前に熟成を図るためのものである。畑にも肥だめ(野坪)があって、そこでも熟成を図っていたが仮置きにこの脇便槽を使っていたのかもしれない。
大便所はもちろん和式であり、木製の床ゆかに25cm x 60cm程の穴を切り、前方に高さ30cmの板を据えて「金隠し」としたものであった。大便所と小便所の間には薄暗い裸電球が吊りさげられていた。
外便所には勿論土足で入れた。これは中庭での農作業中に便意を催したとき、すぐ利用できるようにしたためである。床穴の下を覗くと最近の糞尿が山を作っており、臭気もひどかった。夏場は便槽内では蛆虫がうごめいており、糞蝿と呼ばれる大型の蝿や蜂・虻が身の回りを飛びまわり怖かった。床にはコオロギ類の虫も飛びはね、田舎の便所に行くのは本当に嫌だった。当時はトイレットペーパーなどなく尻拭きには古新聞が使われていた。古紙を再生した鼠色の四角い「落とし紙」が手に入るようになったのは戦後数年してからの事であった。
5-2 内便所(便槽と便器)
「内便所」と言うのは、住宅建物の中に組み込まれた便所の事である。大体北側の西隅に置かれた。
入り口を入ると手洗いと小便所があり、その奥に大便所が備えられていた。小便器に排泄された尿はパイプを伝って隣の大便所の便槽(糞溜め)に流れる。大便所の便器は長円形のリングの様なもので、一方の端時にお椀を半分に切った様なカバー(金隠し)が付いている。リングには段差(羽根)があり、床板にひっかけられて決して下に落ちないようになっている。大便器のリングの中は薄暗い穴(「後架」と言うらしい)である。便器は大小いずれも陶製で、水洗い、水拭きができる。大便所では便器にまたがり、いわゆるウンチングスタイルで用をたす。長便所すると、膝が痺れて苦痛であった。排泄された糞尿は下の便槽に落下して蓄えられていく。便槽ははじめ素焼きの大きなカメだったらしいが、コンクリートが出回るようになって、現場打ちで打設されたり、工場で造ったプレハブ製品が持ち込まれ地中に埋められた。農家の便所と同様、便槽からは臭気が発生し、蝿や様々な昆虫の棲みかであった。この臭気と昆虫との戦いは水洗便所が出現するまで続いた。脱臭剤や殺虫剤もよく売れたのである。
5-3 学校の便所
学校では休み時間に大勢の生徒が便所に駆け込む。短い時間に生徒の生理的要求を受け入れなければならないから、それなりの便器の数が必要となる。男子用小便所は壁と小便を受ける溝ですむが、大便所と女子用便所は個室となるから造作も大変である。水洗化が進むまで、学校の便所は別棟で、校舎からは渡り廊下を伝って用をたしに行った。
さて個室便所であるが、現場打ちのコンクリートで幅・深さとも1.5m、長さ数mのプールを造る。その上に梁(ハリ)を掛けて個室の土台(トコ床)とし、連続したコンパートメントにする。プールの底は勾配をつけて低いところを造り、汲み取りやすくしてある。コンパートメントの中の構造は一般家庭の内便所と同じである。我々の時代、便所の掃除は高学年(5・6年生)の生徒が班を造って順番にやっていたように思う。昇降口、階段、共有廊下などと同じであった。
5-4 汲み取り便所
「汲み取り便所」は、今は「ポッチャン便所」、「ポッタン便所」などと言われている。ほかにも沢山の呼び名があり、NETでみると、呼び名は数十に及ぶ。汲み取り便所とは大便器にまたがって排出された糞尿を便器の穴から直接便槽に落下させ、貯めていく方式の便所である。たまった糞尿は次第に分解して液状化するし、構造に欠陥があると雨水が浸入して液状便となる。こんな液面に固形の便を落とせば便液が跳ねかえって丸出しの尻にまで達する事がある。この跳ねを私たちは「お釣り」と言った。便槽(プール)の貯留物は液体固体の糞尿のほか、落とし紙や生理用品が混じっており、便所蝿の幼虫である蛆虫が蠢めいていた。前述のように、この蛆虫はすぐ成虫になって便所はおろか家じゅう、隣近所まで飛び交う。非衛 (4)汲み取り便所
「汲み取り便所」は、今は「ポッチャン便所」、「ポッタン便所」などと言われている。ほかにも沢山の呼び名があり、NETでみると、呼び名は数十に及ぶ。汲み取り便所とは大便器にまたがって排出された糞尿を便器の穴から直接便槽に落下させ、貯めていく方式の便所である。たまった糞尿は次第に分解して液状化するし、構造に欠陥があると雨水が浸入して液状便となる。こんな液面に固形の便を落とせば便液が跳ねかえって丸出しの尻にまで達する事がある。この跳ねを私たちは「お釣り」と言った。便槽(プール)の貯留物は液体固体の糞尿のほか、落とし紙や生理用品が混じっており、便所蝿の幼虫である蛆虫が蠢めいていた。前述のように、この蛆虫はすぐ成虫になって便所はおろか家じゅう、隣近所まで飛び交う。非衛生極まりない環境を造り出していた。今思いだしてもぞっとする。臭気も激しかった。便槽には臭突(臭気排出用の煙突)が付けられ、便槽内の空気を排出するようになっていたが余り効果はなかった。学校便所のように大きな便槽には何本もの臭突がセットされていた。兎に角、水洗便所が普及するまで、便所は「御不浄」と言われ、怖くて敬遠される所であった。
 
5-5 文化便所(大正便所と昭和便所)・・・図
便所に関する文献をみると、昭和初期、街中に建物が立て込んでくると、各戸の建物の便所の在りようが衛生上、環境上問題になってきて、住宅の便所について役所が関与するようになってきた。はじめは内務省が専門家に検討させて合理性のある便所構造を規定し、推奨した。これは「内務省型改良便所」と呼ばれる。暫くして、厚生省が設置され衛生行政が所管されるようにとなるとこの便所は更に改良され「厚生省型改良便所」と呼ばれるようになった。
糞尿はおよそ100日貯蔵されると液状化と成熟かが進み衛生上安全なものに変わる事から100日程度の貯留量を持つ便槽を組み入れたものと言われる。一人一日0.7ℓとして一人当たり70ℓ、6人家族であれば420ℓ、ドラム缶にして2本強の容量が必要な計算である。
文化便所は構造的にも合理的な配慮がなされていた。便槽は3つに区切られ、①新しい便を受け止め貯留する区画、②便の熟成・液化を進める区画、③熟成便の固液分離を図る区画 からなっていた。このやり方はさらに進化して、腐敗そう式浄化槽につながっていった。
 
     大正トイレ
 
     昭和トイレ
5-6 汲み取り業
 ―(樽、肥桶、柄杓、天秤)⇒バキュームカー―
1)し尿の価値
日本では、糞尿は大事な肥料であった。肥料の3要素である窒素、りん、カリを適量に含有する有機肥料だったのである。農業の始まりとともに糞尿は肥料として活用されたものと思われる。人間が生きて排出する糞尿は農地に移され、広く薄く散布された。
2)人力によるくみ取り
農家では自家の糞尿を屋敷内便槽が一杯になると柄杓で汲みだして肥桶(1斗=18ℓ)に移し、農地の脇に作られた肥だめ(野壺)に貯蔵した。肥桶の重量は20kg近い。近場の移動では、これを天秤棒の両端にぶら下げ肩に荷ないバランスを取りながら運搬する。遠方への移動はこの肥桶を十数樽、大八車(人力)、荷車(馬車,牛車)に積み込み運搬していた。
街中の住宅や学校事務所の便所に溜まった糞尿は専門の業者(くみ取り屋)が居り、定期的にくみ取って行ってくれた。各戸が役場にお金を納め、役場が計画的に手配して業者に作業をやらせていたのだと思う。
3)バキュームカーによるし尿収集・・・写真・図
人力によるこの街場のくみ取り作業は昭和20年代後半まで続いていた。20年代後半になるとバキュームカーが導入され、作業は便利に素早く行われるようになった。直径10cm程度の蛇腹管を裏路地に這わせて便槽に近づき、吸い込み口(マウス)を便槽に突っ込む。車載のエンジンポンプを回して一挙に車載タンクに吸い込んでしまう。
汲み取り作業では、静かに便槽に湛えられていた糞尿を撹乱させることになるから、糞尿が蓄えていたインドール、スカトール、硫化水素、メチルメルカプタン、アンモニアなどの悪臭成分を一斉に吐き出すことになり、悪臭が辺り一帯に漂う。臭気は拡散されるが「くみ取り中の便所」を中心に数十mにまで臭気が広がる。この臭いをわたしたちは「田舎の香水」と呼んだ。今なら悪臭公害だが当時は各戸が順に加害者になるわけだから、隣近所の臭気攻勢にたいしては、みな受忍の義務があった。
4)くみ取ったし尿の行方
江戸時代から市中に発生するし尿は、有価物として農家に引き取られていた。下総や武蔵の農家が船や荷車で引き取りに来ていたのである。この取引は、戦後昭和25年くらいまで続き、し尿は大事な肥料として農場にまかれていた。都内はじめ大都市ではくみ取った尿をまとめてタンク車・荷車に積み替え、列車で郊外へ運ぶことすらやっていた。これで有機物サイクルは齟齬なく回っていたのである。
ただし、戦後、野菜を育てる畑への散布は衛生上の問題、寄生虫の問題があるとして、散布は控えるよう進駐軍から絶えず警告・指導がおこなわれた。そうした指導や化学的に窒素を固定する技術が進み、硫安など化学肥料が開発されて、し尿の肥料価値は低下、逆に厄介物となった。
4)し尿処理場の出現
昭和30年代に入る人口の都市集中が始まり、市中で汲みだされるし尿の量急激に膨張、肥料への活用が縮小したことによって、余剰し尿は増加の一途をたどった。このため、し尿の始末を担当する市町村は困窮するばかりであった。上位の行政体である都道府県も困り果てて、たとえば山林奥地に穴を掘って投棄したり、お穢船(し尿を積み込む槽を備えた引船)を仕立てて、外洋に赴き、投棄する等の方法を取らざるを得なかった。
しかしこれらの手法は環境衛生上問題があるので、官民共同で衛生的にし尿を処理する方法が開発され「尿処理施設」として実用化が進んだ。し尿処理施設は、県庁所在地など大きな都市は独自で、小さな市町村はいくつかが集まって一部事務組合を作り、施設を設置・運営する方法がとられた。し尿の処理方法としては色々な手法が提案されたが、基本的には生物学的な嫌気性分解をベースにするものが多かった。そしてこのプロセスは後に下水汚泥の処理へと展開してゆく。
 (7)浄化槽方式(し尿単独)
戦後、都会に人口が集中し、集合住宅(団地)でなく、一戸建て住宅の建造が進むようになると、住宅の構造が変化し、便所は水洗トイレとすることが一般化した。これに連れて、下水道未普及の地域では排出されるし尿は各戸毎に浄化槽を附置して処理しなければならなくなった。し尿だけを単独で浄化処理する施設である。初期の浄化槽は嫌気式の腐敗槽が中心で100日余糞尿を貯留、固形物の液化を図った後、沈殿槽に移して残留固形分を沈殿分離し、砕石槽に滴下・ろ過、消毒剤を添加して側溝や水路に流す方式である。沈殿槽に溜まった固形物は汚泥としてバキューム車が汲み取っていく。この原型は内務省式とか厚生省式と言われた改良便所にある様に思う。
 (8)下水道接続
昭和30年代、建築基準法が改正され、住宅事務所などの便所は水洗便所とすることが規定された。そして水洗排水は公共下水道か浄化槽に接続することが義務付けられた。しかしこの時期、公共下水道は東京区部や一部の指定都市にしか設置されておらず、それも一部の区域であり、終末処理施設も完全なものではなかった。こうした中、日本経済の急激な成長に伴い、公害がいたるところに発生、これに対処するため、昭和45年には公害防止に関連する法律が一斉に改定・制定された。公共用水域の汚染に関係する下水道法についても大幅な改正が行われ、下水道(公共・流域)には終末に必ず処理施設を設置するべきことが規定された。水洗便所から流されたし尿を含む下水は全て衛生的に安全な処理水となって公共用水域に放流されるようになったわけである。
 (9)合併浄化槽
し尿のみを単独に取り扱う単独し尿浄化槽は、ある程度し尿を衛生的に処理できるが、管理が個人に委ねられたため、設置後のメンテナンスが放置され、水路の汚染や臭気発生の問題が諸所で発生した。また風呂・厨房から無処理で排出される雑排水による水質汚染も無視できなくなり、浄化槽法でそれらの水も合わせて処理すべきことが定められた。水洗便所排水と雑排水を合わせて処理するので、この方式を「合併浄化槽」と言う。