4,お風呂                            水回り昭和の記録
 4-1 銭湯と貰い湯(街なかでは銭湯が普通)
江戸時代から、農村では各戸ごとに風呂は設けており、毎日でないにしても、入浴は果たしていたようである。しかし、街家(まちや)では、自宅風呂を持っている家は限られており金持ちでなければ持つことはできなかった。初期投資は勿論、メンテナンスのための費用が馬鹿にならなかったからである。
街中には小学校の学区内に2~3軒の銭湯(風呂屋)があり、市民は23日に一度皆銭湯に通っていた。私もある時期、歩いて10分ほどの距離にある銭湯に通った記憶がある。当時発売されたばかりのプラスチック製の洗面桶にタオルと石鹸箱を入れ、カタカタ音を立てながら夜道を父親と通った。まさに「神田川」の世界である。銭湯では大きな浴槽の上の壁面に富士山と松原とかの山紫水明を表す風景画描かれており、いまでも図柄が目に浮かぶ。湯あがりに飲んだ果汁入り牛乳が冷たくて本当に旨かった。今ならビールか発泡酒なのかもしれないが。銭湯に行くのが面倒であったり、人目に裸体をさらすのが嫌な人は、隣近所で自家風呂を持つ家に頼み込んで「貰い風呂」で入浴を果たしていた。小学校時代、仲の良い友人の家に泊めさせてもらった事が何度もあるが、そんな夜も隣家の家族(かわいい女の子もいた)が入れ替わり立ち替わり貰い風呂に来ていたのを思い出す。
4-2 外湯(風呂)と内湯(風呂)
わたしの母親の実家は農家であったが、わたしが小学生のころまではその実家は藁葺屋根の本屋(おく)には便所も風呂もなく、それらは別の小屋(建物)に作られていた。本屋を出て暗がりの庭をつたって風呂や便所に行くのは辛かった。冬は寒いし、夜は暗くて怖かったからである。就寝前に尿意を催すと縁側の片隅に立って庭先に放尿していた。農家でも家によっては本屋(ほんおく)のなかに双方を設置する家もあり、それぞれ内風呂、内便所と言った。
4-3 風呂の種類とその構造

 私がこのころ経験した風呂には色々なものがある。終戦直後には焼け跡のバラックに据えられたドラム缶風呂がよく使われた。一般家庭ではヒノキで作られた木桶風呂や大きな鉄なべを利用した五右衛門風呂が使われていた。 
1) ドラム缶風呂
石油等を運ぶために作られたドラム缶は終戦時に内外から大量に放出された。鉄板を筒状に加工して中間に2本のふくらみを持たせて強度を持たせた頑丈な容器である。この上蓋を切取って切り口をなめらかに加工し、底部に穴をあけて栓を取り付ける。ブロックやレンガで造った竈の上に乗せる。水を入れ下から薪を燃やせば立派な風呂となる。ドラム缶の満タン容量は200リットルだから7割の水深で湯を沸かせば大人が中に入った時、丁度湯が上端縁に達する。五右衛門風呂と同じように、木製の簾の子を入れて沈め、その上に乗って湯の中に入る。
最近、吉永小百合がプロデュース、主演した映画の中にも、阿部寛がこの風呂を使うシーンがあるので知っている人も多いはず。私は実物を見知ってはいるものの、この風呂を使った経験はない。

2) 木桶風呂(長府釜)
一般家庭に風呂が持ち込まれるようになると、風呂の形はスマートになった。街中郊外には、ここかしこに「桶屋」があり、ヒノキを加工し、水密性の高い桶を製作して売っていた。その中に風呂桶もあり、家を新築したり、建て替える時にそれを買って風呂場に据え付けた。薪風呂釜から出る煙は屋外に出さなければいけないから風呂場の屋根や壁に穴をあけて屋外に煙突を出していた。

さて、木製風呂であるが外観はいくつかの写真にあるように、木材(ヒノキ)を削って小判形に組み、外側に銅線や鋼線で3段程度囲ってあり、締めつけ固定されている。じつに巧く加工されていて水漏れは決してない、優れ物であった。風呂桶の前方部分には四角い開口部が切られており、ここに火を焚く金属製(鋳物)釜が組み込まれている。釜と桶の間には耐熱性の素材が挟み込まれており木材が焦げたり、漏水しないような仕組みが配慮されていた。風呂釜は燃焼室と煙突部からなり煙突部は桶の縁よりやや高いところまで届くものであった。燃焼室は下部に格子があり薪の燃えかすが落ちるようになっていた。
また入浴者が厚い釜に触れて火傷しないようにガード板(いた)が釜の前に立て込まれており、その上部には煙突の余熱を利用して水を温め、上がり湯として使えるように小さなセルが作られていた。水道のない時代、風呂桶近くには埋め水用の甕や樽を用意するのが普通であった。とにかく、今考えると風呂は不便な仕組みであり、装置であった。
 3) 五右衛門風呂(鉄釜と木製簾の子の組み合わせ)
「五右衛門風呂」と言うのがある。石川五右衛門は秀吉が天下を統一したころ、大泥棒として天下に名をはせた盗賊の名前である。秀吉の命を狙ったりして、最後は捕えられ、釜ゆでの刑に処せられた。この「釜ゆで」から想を得て開発されたのが五右衛門風呂とされている。図のように大きな竈に丸い鋳物の鉄鍋をセットし、下から薪を燃やして中の水を温める。原理はドラム缶風呂と同じである。
  足が鍋底に触れないように木製の簾の子が浮いており、これを踏みつけるように中に入る。関東ではあまり見かけなかったが昭和40年代前半、関西でこの風呂にはちょいちょいお世話になった。家内の実家の風呂がこれだったからである。「東海道中膝栗毛」で弥二さん・喜多さんが宿で大騒ぎした逸話で有名である。 

 
  木桶風呂(長府釜)

  古い木桶風呂
4-4 風呂の掃除と水汲み(子供の仕事)
西欧の風呂ではバスタブに湯をため、一人が入るとそれは捨ててしまって、次の人は新しいお湯を補給するシステムを取っている。これに対し、日本の風呂は、桶に蓄えた湯に大勢の人が浸かり、体を温める。
大勢の人が風呂を使えば桶の中の湯は次第に汚れてくる。人数が多くなるとその日のうちに桶の湯は落とし、中を洗って次に備えなければならない。
湯沸かしの作業は、残り湯落とし、桶の洗浄、新しい水の補給(水汲み)、竈の着火、薪くべ、温度見(観温?)と続く。この位の作業は、小学校中学年から十分にできる。だから、私達も子供の頃はよく風呂焚きの準備をやらされた。風呂栓をぬいてまず湯を落とし、タワシで桶の中をこすって水垢を落とす。洗浄が終わると井戸の手押しポンプを上下させてバケツに水を汲み、井戸から離れた風呂桶まで両手にバケツをさげて運び風呂桶に注ぐ。
一方で、薪を割って細木にし、釜に詰めた新聞紙の上に乗せる。マッチを擦って火を新聞紙に移す。火が着いたら次第に太い薪に変えていく。煙突掃除だってやらなければいけないのだが、さすがにこれだけは大人の仕事だった。井戸の水汲み、バケツ運び、薪割り、今思い出してもみんな嫌な仕事だった。
4-5 加熱用燃料(薪釜からガス釜へ)
昭和30年代後半になると家庭用燃料として、灯油が主役になり、東京郊外でも都市ガスが入るかプロパンガスが使われるようになった。これにより薪や木炭は次第に姿を消していった。炭・練炭は明治生まれの主婦(わたしらの母親世代)たちが長時間の加熱調理用や炬燵用に使う程度になった。その炬燵さえも電気コンロに置き換えられていったのである。電気コンロは形を変えて電気炬燵の形式になった。
風呂釜の方も、薪釜は次第に廃れ、ガス釜に変わっていった。ガスは都心部では都市ガスが、郊外部ではプロパンガスが利用された。自動着火装置のついたバーナーをセットしたガス釜がきわめて便利なのに目を見張る思いであった。この時代、風呂桶も木製のものからステンレス桶に変わるなど大きな変革が生じている時期であった。
ところで、家屋内に設けられた風呂も釜の焚き口は、当初屋外にあった。台所の戸口を出て軒下をたどり風呂場の外側に出向くわけである。だから、ガス釜に変えられて、風呂場の中で火の調節ができるなんて本当に夢のようなことだったのである。
4-6 ほくさんバスオール(個人的経験から)
 今40代以下の若い人たちは勿論、中年・塾年の人でも「ほくさんバスオール」の名前を知っている人は少ないであろう。インターネットによれば、まだこれを持っていたり、最終改良型を現に使っている人がいるというから驚く。
さて、「ほくさんバスオール」とは何か。まずは写真をご覧いただきたい。
このように、FRPで作ったハコの中に同じくFRPで作った風呂桶を隙間をあけてセットし、その上に、細長い板材をビニールシートでコーティングした巻き込み式の蓋を載せたものである。給湯は外にセットした瞬間湯沸かし器から行われる。まず適温にしたお湯を風呂桶に注ぎ込み、風呂を成立させる。風呂に入る人はビニールカーテンを開けて蓋の上に乗り、シャワーを浴び、石鹸などを使って体を洗う。シャワーの排水は蓋の周りから外バコと桶の間を通り、排出される。次に自分が乗っていた蓋を丸めて湯船につかり、風呂の感触を味わう。湯船から出るときには丸めた蓋を巻き戻してその上に座り、身体を拭き、カーテンを開けて外に出る。こうして風呂に入った気分になるわけである。初期の「ほくさんバスオール」である「蓋上洗い方式」は設置面積が畳半畳ちょっとの大きさで、6~8畳のリビングルームに何とかおさまり、入浴気分を味わえた。ガスは部屋のガス栓からホースでつなぎ水は台所のカランからその都度採取していたように思う。
 

「ほくさんバスオール(カタログから)
排水は電気洗濯機の排水ホースのように床を伝わせてベランダに流した。この写真はバスオール初期のものである。
このバスオール、平たく言えば、風呂のない家や共同住宅のリビングに簡易な風呂を設置しようというものであった。このシステムは関西で開発されたもので、大阪千里ニュータウンの初期賃貸住宅のように風呂がない住宅でずいぶん売れた。かく言う私も大阪府に転勤し職場から近い職員住宅の6階に入れてもらったものの、2DKの住宅に風呂はなく、すぐ近くの銭湯を利用しなければならなかった。しかしこの時期、第1子の長男は2歳で、家内は第2子を懐妊しており、エレベータなどない6階までの上り下りが大変であった。日に1度の買い物は致し方ないにしても夜半赤ん坊を抱いて銭湯に行くのは辛い、苦痛である。
「なんとかしてよ」ということで、あれこれ検討の結果、遂にこの「ほくさんバスオール」を購入することにしたのである。勿論バスオールは「面白いものがあるんだね」と親戚中の話題となった。リビングルームも少し手狭になった。しかし銭湯に行かずに済む利便さは十分に享受した。
購入して間もなく、東京へ転勤となり、バスオールとの付き合いは短い期間で終わった。バスオールは同じ職員住宅の人に譲った。バスオールはその後改良されて、形も大きくなり、風呂桶と洗い場が分離される等贅沢なものに変わっていった。いずれにしても、バスオールは「本当に日本人らしい発明だな」と今もつくづく思う。
4-7 ユニットバス(バスオールの原型=ホテル急造への対応)
1964年(昭和39年)秋に東京オリンピック開催が決まって、4~5年前の昭和36年位から日本国中なかんずく、東京都と近郊ではその準備に追われた。高速道路、新幹線、下水道、隅田川浄化等のインフラ整備が熱心に行われたのである。外国からの賓客を泊める為の高級ホテルも都内各所に新築された。この頃から建築物はカーテンウォール方式が取り入れられ骨格や外壁は短時間で完成させられたが内装特に左官・タイル工事を含む浴室は一部屋ごとの仕上げのため数百室に及ぶ工事の難渋が予想され、工期内完成が危ぶまれた。このとき時間短縮工法として考案されたのがユニットバス方式であった。前出バスオールのように、工場で整形したバスタブ、シャワールーム、防水天井をセットにして組み立て現場に組み立てるやり方である。これによって工期は大幅に縮小された。設計者、元請けゼネコン、給排水工事会社、FRP製作会社が一丸となって知恵を絞った成果であった。この手法はその後ホテルや大規模集合住宅の建築で応用されて行った。