2,井戸と水道                    水回り昭和の記録 
2-1 井戸
地べたを人力で掘り下げて、土地に穴を穿つ。水脈にぶつかったら地下水面より3尺(約1メートル)くらい余堀し底に水が溜まる様にする。人が穴を掘るにはそれなりの作業空間が必要だから穴の直径は1.0~1.2mになる。土砂が崩れないように地表面近くの開口部は石積み、木柵等で掘削面を保護する。明治以降保護材にはベトン(コンクリート)やレンガ、漆喰等、木柵等も用いた。関東では、関東ローム層の下にある砂利層で地下水が出る。深さは5~10m程度である。
2-2 上総井戸
特殊な井戸掘り技術として「上総掘り」というのがある。掘りぬき井戸といって数百mに及ぶ孔を地中に穿ち、自噴する井戸を掘ることができる。竹を割って節の内がわを削り針金で繋げて長い(数百メートル)の竹棹を用意する。棹の先端には錘を兼ねた鉄製の鑿をつけ、高さ10m程の櫓を立て、櫓上に「ハネギ」と呼ばれる竹ばねを設置して棹と連結する。ハネギ(跳木)の弾性力と鑿の落下力で大地を穿ち、少しずつ穴を深くする。人は穴に入らないから井戸の直径は20センチ程度である。千葉県の上総で開発され、国中で請け負われた技術なので「上総掘り」の名がついた。
2-3 つるべ井戸
   
昭和30年頃の田舎=長野県小野近辺
「つるべ井戸」は井戸の上部に櫓を設け、滑車をつるす。回転車には棕櫚綱を掛けてその両端には5
リットル程度の水が入る桶を結び付ける。綱の長さは地下水面と地表の長さプラス数メートルになっている。人が綱を持って桶を下に落とし引き上げる。縄先の一つの桶が水を蓄えて引き上げられた時、もう一つの桶は水面に達するようになっている。桶(瓶=ベイ)を吊るから「つるべ」と言うそうだ。
つるべは地下水をくみ上げる装置として大昔から作られていたものと思われるが起源は定かでない。でも映画やテレビの「時代もの」ではよく現われるので若い人でも知っている筈だ。
つるべではなくて長い柄(2~3m)に木桶をつけた柄杓で地下水を汲みとる方式もある。
2-4 手押しポンプ
 手押しポンプは井戸の底に溜まっている水を機械力で汲み上げるものである。
 明治以降に日本に持ち込まれたものと考えられる。ポンプの基本原理は水鉄砲と同じである。容器の中に真空を作り、水を吸って蓄え、容器から水を押し出す。これが原理である。ポンプでは吸い込む側と吐き出す側に弁を設ける。図-○のように長さ50cmくらいの筒を「ポンプ室」として井戸の上に設置する。「ポンプ室」には地下水面下に、吸い込み口を持つ鉄管が接続されている。この「ポンプ室」の下部には上向きに開くゴム弁がつけられている。手押し棒はポンプ筒の肩を支点にしてポンプ室内を上下する弁付きのシール板が鋼棒で連結されている。手押し棒を押し下げると、シール板の弁(上弁)が閉じてシール上部の水が持ち上げられ、吐き出し口から排出される。このとき下部の弁は開となって下部の管内水がポンプ室に吸い込まれる。真空を利用するので揚程は原理的に10mが限界であるが、複数のポンプを連結してある程度の高揚程を得ることができる(高揚程ポンプ)。  
2-5 電動ポンプの導入
 昭和20年代後半には、家庭の井戸でも電動ポンプを設置するようになった。地下水面下に吸い込み口をセットした小型ポンプで地下水を地表以上にくみ上げる装置である。初期のポンプはモーターの回転を上下動に替え、手押し棒の動きと同じ動作をさせたようだが、後に回転ポンプに変わった。
電動ポンプには①高架水槽を設けて送水圧力を保持するものと、②配管先の蛇口が「開」になって送水管内の圧が下がるとポンプが自動的に稼働するものとがあった。
初期のものは高架水槽式が使われ、大量に水を使う工場や学校ではこれが多かった。自動稼働方式は昭和30年代になって普及し始め、2~3軒で一つの井戸を掘り、共有する例が多かった。
2-6 水道の導入と普及(立川市の場合)
基地の街立川
昭和20年代半ば、立川飛行場は進駐軍に接収されて、空軍の輸送用基地となった。おりしも昭和25年には朝鮮動乱が勃発、朝鮮半島に物資や人員(兵士)を輸送する航空機の離発着は猖渇を極めた。立川飛行場の滑走路は南北に延びる一本で、その延長線近傍には民家、学校が密集していた。わたしが通っていた新制中学校(立川一中)や立川でもっとも古い小学校(柴崎小学校)は絶えず騒音に悩まされていた。大型のプロペラ輸送機がり離発着する度に、窓ガラスは振動し、先生の声は通らず、授業は中断された。基地の街、立川は悪い方ですっかり有名になった。騒音に対する環境基準等ない頃のことである。
●地下水汚染
さて、そんな基地の街で異様な事件が起こった。滑走路の南側に広がる富士見町一帯の井戸水に異常が生じたのである。この辺では地表に降った降水が地中に浸透し、河岸段丘を構成する関東ローム層の下の砂利層に滞水、ゆっくり南の多摩川に向かって動いている。これが地下水脈で、各戸の井戸はこの水を汲み上げていたわけである。
井戸水の異常は初め水を口に含むと軌発油(ガソリン)臭が鼻腔を通り抜けるというものであった。だんだんとその臭気は強くなり、鼻を近づけただけで油臭を感じ、ついには、汲み上げた水に火を近づけると燃えるようにさえなった。市役所は緊急処置として給水車を出動させて住民に配るとともに原因の究明に全力を挙げた。当時、東京都、厚生省等の担当部局、大学の地下水専門家が調査に当たったようである。調査の結果、どうやら基地内の航空用燃料タンクから漏えいしているらしいことが判明した。直ちに、基地内タンクでの対策が取られたようだが短時間で地下水は正常に戻らず、給水車の出動は長く続き、住民は暫くの間飲み水に不自由をきたすことになった。まだ水道のなかった立川市だがこれを契機に水道敷設計画が練られ、国(防衛施設局)の財政的援助もあって直ちに工事が始められた。神社の裏、鎮守の森の一角に150mの深井戸が掘られ水源とされた。わたしたちはその工事の模様を再々眺めに行った。給水管の敷設工事も市内道路のここかしこでおこなわれ、街中が掘り返されていた記憶がある。
立川市(旧市)内の水道はこのガソリン汚染をきっかけに戦後急速に整備されたのである。