序-1    水まわり、昭和の記憶 
 これは、70数年生きてきた年寄りの「水にまつわる昭和時代記憶」の一端を記したものである。
文章の中にある物・事の多くは、今や死語になっている。それらについて、もっと詳しく知りたい人は、インターネットを開いてキーワードを打ち込んでみてほしい。ウィキペディアなど、辞書機能でまだ詳しい情報が得られる。

 A.記憶の背景
 今年2015年、私もとうとう喜寿を迎える年齢になった。
小学校(当時は国民学校と言っていた)に入学した年の夏、終戦を迎えた。
生まれた時は既に日華事変がはじまっており、3歳の時に真珠湾攻撃があって日本は太平洋戦争に突入した。だが私にとって開戦初期の戦争記憶はマダラ模様である。
生まれたところは飛行場がある立川であった。はじめ駅近くの借家に住んでいた。この頃父親に連れられて電車に乗り、靖国神社に参詣した事がある。空中戦や海戦をベニアの看板と模型で再現しているジオラマの様なものが境内に展示されており、これが妙に印象に残っている。幼児ながらに飛行機や軍艦が動くのが面白かったが、昭和18年になると飛行場拡張や周辺地整備のためか強制疎開にあい、家を追い出された。同じ市内の郊外部に引っ越した。すでに戦争は熾烈を極めており、山本五十六の葬儀が粛々としかし盛大に行われた年であった。家財道具を山のように積んだリヤカーの後ろを幼い妹たちと押した事は覚えている。昭和19年から20年になると飛行場のある立川も焼夷弾による空襲や機銃掃射を受け、度々防空壕に逃げ込んだ。崖渕に掘った横穴式の防空壕が空爆を受けて崩落し、40~50人の住民が亡くなった。

余談であるがこの時期、世界的指揮者で有名な小沢征爾氏も幼少のころ立川に住んでおり、隣町にいたらしいことを最近の日経新聞の「私の自叙伝」で知った。小沢氏は自叙伝で機銃掃射を受けた経験を記している。彼が通っていた幼稚園は立川発祥の町、柴崎町にあり、その幼稚園は私の妹の嫁ぎ先の家の隣に今もある。また、この幼稚園経営者の娘さんは中学校・高校を通じて私の同級生であった。

立川には新宿から甲州、信州に向かう中央線の駅があり、ここから南武線や青梅線、五日市線が分岐するターミナル駅で有名であった。また立川飛行場の足元の町として賑わいを増しつつあったが市制を敷いて僅か数年たったばかりの頃の事、まだまだ田舎の町であった。都市計画も未成で、郊外では桑畑・麦畑を切り開いて区画道路を造り、宅地造成が盛んに行われていた頃である。

飛行場も農地や雑木林を開いて造られたから排水施設は不十分であったようだ。立川のもとの集落は多摩川左岸の河岸段地の上に開けていた。飛行場造成で農地・原野は裸地となり、冬から春先、北風が吹くとローム土が舞い上がり、北の空は赤い土埃で真っ赤に染まった。家の中にも土埃が積もった。飛行場の排水路は新たに掘られた水路で、北の砂川地区から南下し、段丘の崖で滝を造り、落下後は崖下を流れて、下流で多摩川に合流していた。飛行場内と街中の水路を「残堀川」といい、崖下の水路を「根川」と呼んだ。根川の川岸には桜が植えられ花見の名所になっていた。

飛行場の造成で造られた残堀川は流出係数の増大で降雨を呑みきれなくなったのだろう。駅北口の曙町では少し強い雨が降ると床下浸水が起こり、その常習地帯であった。駅から北に延びる大通りは雨降りの度、いつも水に浸かっていた事を覚えている。
このため、陸軍か、都か市かは判らないが、戦時中、役所の手で飛行場から東に向けた新たな水路が掘り進められていた。強制疎開の前、私はその工事現場を見に行って迷子になり、大泣きしてウロウロし、交番に保護された思い出がある。東に向かって国立との境界付近を南下するこの水路は完成後「緑川」と呼ばれた。緑川は戦後蓋が掛けられて上は道路になり、重要な幹線街路となっている。

郊外に移ってから、小学校、中学校、高校と、大学生になるまで、私はこの地で育った。だから立川はわがふるさと(故郷)である。
終戦後の、駐留軍の進駐、「ギブミー・チョコレート」の世界、ヤミ市、コールガール(パンパンと言った)の闊歩、立川高校生徒による風紀浄化運動、朝鮮動乱時の激しい飛行機騒音、砂川基地闘争など、ひとつひとつが 吾が青春の思い出の1コマ1コマとなっている。まだ爆騒音に明け暮れている時期、私は大学進学とともに立川を離れた。爾来、立川は「遠きにありて思う」故郷になっている。私自身は、立川を出て品川、赤羽、大阪堺、守口、東京日野、王子、つくば、練馬と転々と移動して昭和を過ごし、今日に至っている。この間、仕事柄、水にまつわる事どもをしっかりと経験してきた。

昭和50年代、立川基地はその機能を停止し、日本に返還された。返還された土地は暫く放置されたのち、大半が国営の昭和記念公園となり、残りは官公庁街に生まれ変わっている。こうした変化につれ、立川は都下随一の大都市に変貌し、都市モノレールも加わって、まさに三多摩の中心都市となっている。終戦時数万だった人口も砂川町を合併し、あちこちの団地造成も合わせていまや18万人に膨らんでいる。このように私が生きた昭和・平成の数十年の間に生活の場は大変化を遂げている。その変化のうち、昭和時代を中心に経験した事どもを記しておくことにする。