─長崎の思い出─        明石 哲也
 2014.10      
 一家が朝鮮元山からの引き上げ帰国後に、私は五島列島の玉之浦で生まれた。
その後、昭和25年に、長崎市の原爆落下地の平和公園近くの住居に移転した。
近くは原爆資料館が建設される前で、瓦礫の山が沢山あり、ガラスや鉄くずを仲間で拾い出し、くず鉄屋に売り、飴玉を買いに走ったものだ。
● 当初の家は広い敷地に一部屋の掘っ立て小屋で、トイレは独立の郵便ポストの様な造で照明もなく、夜間には怖くて単独では行けないものだった。そこで時々、野糞をするのだが、放し飼いの鶏に顔を突かれ、怪我をした覚えがある。

● その後、転居した近くの住居は水道が高台のために各戸配水ではなく、共同水栓だった。
いつも近所の人が順番で並び、私も手伝いで、家まで運搬し、水甕に入れ使用した。すぐ横には養鶏所があり、その中に井戸があり、よく利用したが、養鶏所の排水が紛れていたようだが、構わずに使用していた。
水甕のために虫がキンピラ牛蒡に混入したり、石鹸が混入した味噌汁を飲んだりした被害もあった。
蛇口をひねると、安全な水が出る文明世界の恩恵を受けるには数年を要した。

● トイレは貯留式で、バキューム車が月1回汲みに来た。庭で大量の野菜の栽培を始めたために、母が肥料にするようになり、“一石2鳥”の効果を自慢していた。

● 平和公園の中を“下の川“が流れ、原爆落下の時は、死体で埋まった川である。夏は、その川まで、家から褌で川遊びに行く毎日だった。岩イチゴを食べ魚や蛇を追いかけた楽しい思い出がある。その後、家庭排水で、どぶ川となり、水泳不可となった。
現在は、下水道の普及で清流を取り戻している。

● 昭和28年、原爆で教職員が全滅した、城山小学校に入学した。戦後の学童急増で午前と午後の2部授業だった。学校への行き帰りに、工事現場で、美輪 明宏のヨイトマケをオジサン、オバサンが悠長に歌いながら杭打ちをするのを見たが、なんとも、のんびりした風景であった。
また、荷馬車が馬糞を垂れ流しながら通るのを皆で追いかけた。馬車の後ろに、ぶら下り、ただ乗りをして楽しんだ。時々、米兵がジープで通る時に、子供大勢で“ギブミ、チョコ”と追いかけ、ばら撒いたチョコを拾い、美味しく食べた思い出がある。
米兵の愛想のよい陽気な対応は、今でも感謝する思いだ。

● 学童の急増対策で3小学校を統合し、坂本小学校を新設した。4年生の私が最上級生でいろいろな作業に組み込まれた。小学校が高台にあり、急な斜面に階段の通学路を造成するために、毎日、授業中に、鍬での造成作業に動員された。運動会の前には、グラウンドに臨時の長屋式汲み取りトイレを作るために、穴掘りに動員された。終了後の埋め立てには動員されなかったのは幸いだった。業者への発注なしで、授業中の小学生を危険な土木作業へ動員することは、現在では考えられないことです。