ふるさとの水の思い出 ─昭和40年代の秋田県鷹巣町の記憶─        阿部 恭二
 2014.10      
水洗トイレとの出会い
 小さい頃、父、母のことを「父上」、「母上」と呼んだ。冗談みたいな話だけれど、父が東映系の映画館で映写技師をしていたので、時代劇映画の影響を受けたに違いない。
 「父上」、「母上」以前の呼び方は「おとっちゃん」、「おかっちゃん」だったか。その呼び方が、昭和30〜40年代の秋田県北部地方(旧鷹巣町、現北秋田市)では一般的だったのではないだろうか。
 だから、「父上」、「母上」も珍しかったろうけれど、「パパ」、「ママ」という言い方もとても珍しかった。「パパ」、「ママ」という言い方をしていたのは、小学生時代(昭和40年前後)はたった一人だけ。病院のお医者さんの息子で、その同級生の家に遊びに行くと、「ママ」が決まっておやつを出してくれた。
初めて水洗トイレを使ったのも、この同級生の家だった。まちの中で、学校や公民館などの公共施設を含めて水洗トイレを探すのは難しかった。「トイレ」という言葉と出会ったのも、この「ママ」のいる友だちの家だったかも知れない。
当時は「トイレ」ではなく「便所」という言い方が一般的だった。せいぜい同級生のお母さんたちの一部が「お便所」を使った。
小学生たちは学校で「便所」へ行くことをなぜか恥ずかしがった。木造校舎の小学校の便所は汲み取り式で、特に大便をしたことが知れると、クラスメートにバカにされた。小学校の中で便所は、独特の暗い雰囲気のある場所だった。
だから、この時代の「便所」は、目の前がパッと明るくなるような、ハイカラな「トイレ」ではなかった。「トイレ」は、「便所」とは違った意味で恥ずかしい言葉であり、「パパ」や「ママ」と対になるような表現だった。「トイレ」が言葉として、私の生まれ育ったまちで生活の中に定着してくるのは、下水道が整備される前ではあるものの、私が初めて「水洗トイレ」に出会ってから10年以上も先のことになる。

家の前の水路
 私の家の前には幅1m前後の水路があって、というよりまちの家々の前にはこの水路が流れていた。水路は、私の家の前まで三面をコンクリートで固められていたが、私の家から先はどぶ川のようになっていて、そこを流れる水はヘドロのように真っ黒だった。
あるとき、私のところに遊びに来た友だちがその水路に足を滑らせ落っこちて全身泥だらけになったことがある。鬼ごっこでもしていたのだろうか。そのときは水路に落っこちたことに驚き、かわいそうだと思いつつも、泥だらけになった友だちの姿を見ておかしくてたまらなかった。
 私の家の前まで来ているコンクリートのこの水路に板切れを浮かべ、それを長い棒で突っついて水の上を走らせる競争をして遊んだことがある。たかだか100mくらいの距離だったけれど、その競い合いにはかなり熱がこもり、前の板切れを追い越すときには大きな声が上がった。この水路がどこからどこまで、そして何のために流れていたのか知ることなく、そんな遊びに興じていた。