パリの下水道の由来
      物語 「下水道の歴史」 齋藤健次郎著 水道産業新聞社出版 より

1,トイレもなかった中世の頃
 パリは古代ローマ帝国のころからの歴史がある都市です。
中世のパリといえば、素敵な都市という印象ですが、街路に汚物が投げ捨てられていたことでは他の欧州の諸都市と同じでした。
 パリジャンは自由に窓から「おまる」の中身を投げ捨てていましたから、道を歩く人は素早く逃げないとそれを浴びなければなりませんでした。
 1531年に法律ができ、家主は各家にトイレを設置しなければならなくなりましたが、必ずしも徹底しませんでした。フランス革命の頃、パリにも公衆便所が沢山できていましたが、その多くはあまりに不潔で、あまり気にしない人でもよその場所で用を足したくらいです。1830年代中頃パリの警視総監であったアンリー・ジョセフ・ジスケは、パリの路上で働く下級労働者、その多くは当時盛んだった住宅建築現場で働く人々でした、が所かまわず立小便をしているのが外国人のひんしゅくを買っていると日記に書き、市内に1500カ所の公衆便所を造ることを提案しました。しかし、これには下水道の整備が前提になるものであり、実際その実現はかなり困難でした。

2,下水道のはじまり

 パリの下水道は、その場しのぎでやりやすいところから造っていったようです。最も古い下水道は1374年パリ市長のユーグ・オブリオが中央市場近くのモンマルトル地区に造ったものとされています。1605年にはフランソワ・ミロシが暗渠式の下水道であるポンソー下水管を設置し、ルイ13世、14世など歴代の国王も下水道整備のための計画を立て、その一部を実現しました。その大半は、はじめは蓋のない開水路でしたが、ごみなどの投棄を防いだり、当時発達しつつあった馬車の邪魔にならないように、次第に暗渠になっていきました。ユゴーが19世紀中頃「レミゼラブル」中で226kmの下水道ができていると書き留めています。ジャンバルジャンが傷ついたマリウスを背負って逃げたとされる環状下水道は1740年頃にできています
このように下水道は整備されてきましたが、人口の急増によって根本的な対策を必要とする状況になってきました。パリの人口は1801年で54.8万人、1836年に86.6万人、2月革命で共和制が復活した1848年に105.4万人と50年で2倍になりました。この結果し尿の量も急増しました。当時し尿の大部分はパリ北東部のモンフォーコーンの石切場跡地に投棄されていました。ここでは大地の斜面を利用して造った穴をし尿が順々に流れ下ることによって、固形物と液状部分に沈殿分離し、上の方、つまり液状部分はセーヌ川に流し、底に残った部分は天日で乾燥し、肥料として主に野菜栽培者に売られていました。
 やがて住宅開発が石切場周辺まで押し寄せ、処理を続けることが難しくなって、遠く離れたボンデイの森に投棄場所が移されることになり、1849年に移転しました。
 一方でパリ市内の低所得者層が多く住む住宅では、家の下に穴を掘り、し尿の液状部分を地中に浸透させるだけ、という吸い込み式トイレも多く残っていたそうです。根本的な対策が不可欠の状況になっていました。

3,水売りから水道へ
 市民は長い間、セーヌ川の水を汲んで売り歩く、水売りの水がたよりでした。泉水を利用した小規模な水道や、セーヌ川の水を蒸気機関駆動のポンプで揚水し、給水する水道会社もありましたが、主な供給先は寺院、王宮、一部の特権階級の邸宅などに限られていました。市民は市内に50ほどあった公共の泉水でそのおこぼれにあずかる程度でした。
 1802年、舟運と水利用を兼ねるウルク運河の工事がはじまりました。ウルク川からセーヌ川まで運河を掘り、舟運に利用するとともに、パリの街路と下水道を洗浄し、上水道にも役立てようとするものでした。計画ははかどりませんでしたが、第一執政であったナポレオンの主導のもとで実現を見たのです。
 当初の計画は工期3年でしたが、通水したのは1808年、全てが完成したのは1825年でした。
 これによりパリ市内への水供給量は飛躍的に増大し、水使用量は10倍に増えました。
 その後、ベルグランにより、別系統の上水道が創設され、ウルク運河の水は雑用水道に転用されました。現在、パリ市内で早朝に街路を水で洗浄していますが、いまも使われています。