東京の活性汚泥法導入                      2013.9       山下 博
 大正初期、東京駅の開業(大正3年)による都心部のさらなる発展や隅田川とそれに連なる運河のある亀戸、大島、砂町や京浜工業地帯である大崎等の城南地区等の市郊外町村は急速に工場地帯化、全国各地からの流入、市近隣郊外町村は住宅地として無秩序に開発をされていた。この東京市と近郊の膨張は多くの都市問題を引き起こした大正3年、4年のペストあるいは大正元年、5年、11年のコレラの流行など大正に入ってから毎年数千人の伝染病患者が発生し死者も毎年2000人前後に及んでいた。こうした状況の中で都市問題の発生が顕著であり、都市計画の法制化が強く望まれていた。東京の下水道は漸く本格的な建設期を迎えた。
 大正10年には道路形態、地下埋設物、路面交通、土地利用、糞尿の価値観の変化などから、近隣郊外町村を含めて東京市下水道計画の変更が必要になっており、「臨時下水道調査委員会」を設置し変更計画事項の審議を行った。中島鋭冶博士を委員長とし、各委員が約1年半かけて、海外文献の検討、現地での調査研究を進め排除区域 、計画人口、計画汚水量、雨水量等の基本的事項や汚水処理、汚泥処理処分、農業利用等を議決した。ここでは汚水処理について調査したのが東大教授の草間 偉*であり、当時欧米で最も新しい促進汚泥法(活性汚泥法)を紹介した。大正12年(1923)3月にその発明の経緯、欧米における処理施設の状況、改良の状況などを調査し期界の注目を浴びた。
その報告書の一部を紹介すると、「促進汚泥法は種々下水処理法のある中で最も新しい方法であり、これは1912年(大正2)に英国マンチェスター市のファウラー博士が最初に考案したもので、同市の下水に酸化細菌を混入し空気を吹き込み攪拌すれば、下水は6時間位で完全に浄化されることを報告し、この酸化細菌を“Activated-Sludge”促進汚泥と命名した。ファウラーの報告に次いで、同じ実験をアーダン、ロケットがマンチェスターのデブイユールムで続け1913年にその浄化作用を鮮明にした。マンチェスター市に続き、サルホルド132,000ガロン/日(600m3/日)、ウィジントン、ウースターその他諸所で効果を挙げている、1917年にはモスコーに135,000ガロン/日の処理施設が完成している。」とある。
 大正11年(1922)は東京市で最初の三河島汚水処分場が 撒水ろ床法により運転開始した年である。その拡張及び砂町汚水処分場の将来計画の準備として機械かくはんによる促進汚泥法の試験設備が設けられた。大正15年(1926)から9年間にわたって、活性汚泥法のかくはん、散気、シンプレックス式の実験を行った。また、活性汚泥法の3方式を撒水ろ床式と比較した。活性汚泥法は当時最新の処理方法として、所要面積・浄化能力とも優れており、将来採用せざるをえない方法と考えられていた。しかし、ばっ気動力・余剰汚泥の増大・散気板が高価でトラブルが多く、バルキングの心配などがあり、K水ろ床法の操作の簡易性・安価な処理費用などを考慮し、直ちに全面的に活性汚泥法の採用という気運ではなかったようである。このような事情から、三河島汚水処分場にかくはん式(パドル式)の実用活性汚泥法処理施設が稼働したのは昭和9年のことである。芝浦汚水場に、シンプレックス式ばっ気槽が稼働したのは昭和14年である。
 

*草間 偉(いさむ)明治42年に母校東京帝国大学の助教授となり上下水道講座を担当し、大正7年から2年間、欧米に留学した。10年に土木学会で促進汚泥法を紹介した。12年に名古屋市の促進汚泥法の実験を指導し日本最初の活性汚泥法による下水処理場を誕生させた。

                                         出典: 下水道東京100年史