下水道協会誌 1990/4(Vol.27 No.311) より

随想 私の決断ー堀留下水処理場の建設      杉戸 清 (名誉会員・工博)
 このたび下水道協会誌が衣更えして,少しむつかしい論文のようなものと,もう1つは実務的情報を主体に,随想とか,回顧録のようなものなど,いわゆる少し柔らかいものとの二本立てになるとのことである。    
 このことは,これまでのようなむつかしい論文のようなものばかりでは読者が限定されてしまうので,少しでも読みやすく,親しみやすくなるということは,下水道の普及と大衆化という点から非常に結構なことである。
 さて,私も回顧録というようなことを書くということになると、なにしろ非常に長い半世紀以上のことにもなるので,過去のことが,あれこれと走馬灯のように頭の中を駆けめぐる。 私は,今年で齢90歳になる.その所為か,近頃は過去のことをあれこれと的確に思い出せないようでもある。しかし,私の決断となると,何といっても、私が名古屋市長選挙に立候補するか、しないか,というときの決断が過去の一番犬きな経験であったと思っている。
 一介の技術者が政治の渦中に身を投じて市長に立候補する,あるいはしない、というような決断はなかなかいたし兼ねることであって,私の一生を左右する最も大きな決断を要する出来事であった。まあしかし,このことは今回私に与えられた課題かちすれば「的はずれ」のことというべく,何といっても,下水道に関係したことでの回顧録であり,決断である,ということでなければならないと思われる。
 このような観点から思い出をたぐって見ると,あった!あった!ということになる。
大15東京帝大卒(工,土),名古屋市を振出しに内務省に勤務,昭22名古屋市水道局長,昭32同市助役,昭38同市長(3期),昭43〜48日本下水道協会会長,昭48日本下水道協会名誉会員
 一体,どんなことがあったのか。
 それは,何はともあれ,日本で一番最初の,しかも大がかりな,促進汚泥法(当時の呼称)による下水処理場の建設ということになるのである。
 日本で一番初めの,大がかりな処理場というのは,名吉屋市の「堀留下水処理場」の建設ということであるが,これは恐らく,我が岡の下水道史上でも間違いのないことだと思われる。
 今でこそ,猫も杓子も,下水処理だ,活性汚泥法だなどと,至極当りまえのことのように申されているが,当時,すなわち昭和の初めでは,まだ,下水処理は海のものとも,山のものとも見当がつかなかった時代であった。
 当時,私は名古屋市下水課の技師であり,池田篤三郎水道課長,石下朝重下水課長のもとで工務係長であった。その頃の工務係と申すのは,設計と施工を一手にやっていたので,仕事はなかなか大変である。そういうなかで,名古屋市の中心部である中区一帯の下水を処理する処理場の建設ということであり,しかも,その処理の方法が,当時,まだ世界的にも最も新しい方法といわれていた方法を採用するということで,これは一体全体どうなるのか,又,どうすればよいのか,始めから十分な成算があったわけではなかった。
 そこで,第一に,そのような下水処理についての勉強から始めなければならなかったのである。
当時、この促進汚泥法と申される処理方法については「アクチベーテット、スラッジ、プロセス(The Activated Sludge Process)」という「マルチン(Martin, A.J)の著書が一冊あるのみであった。その本を東京の丸善から早速取寄せて,日夜,首っ引きで勉強を始めた。
 その一方において,当時,本市の熱田ポンプ場に設けられていた、この方法による実験設備をつぶさに観察した。なお,当時の我が国では,このような実験施設は,京都市の鳥羽と大阪市の市岡に小規模なものがあったのみである。
 又、一方,東京市には三河島に散布ろ床法による大規模な汚水処理場があったので,それらとの利害得失もつぶさに視察に、検討したのである。
 その結果,建設費や維持管理などのお金のことあるいは処理方法のことについて,何とか目鼻がついてきたので、いよいよ着工ということに相成ったのであるが,さてそこには,市の上層部とか,市会に対する対策が必要となる。
 莫大なお金をかけて処理場を造るには造ったが,その成績が思わしくないとなると,これは大変なことである。一人や二人の切腹ぐらいでは済まぬことになる。しかし、何とか上司からも,市会からも了解が得られたものの、その責任は結局,下水課全体ということであって,よほどの自信がないことには,このような莫大なお金をかけることはできない。特に当時の下水課長や工務係長が全責任を負うということになるのである。
 しかし,私はこの処理方法については,今までの勉強の蓄積から自信と成算は十分にあったのである。そこで,下水課の中でも最も優秀な技師を現場の監督者に据え,日夜を問わず工事を進めた。その甲斐があってようやく竣工して通水となったのであるが,それは確か昭和4年の末であったと覚えている。又,その成績も,大体始めに思っていたようなことであった。
 そうこうしているうちに昭和5年になったが,同年ほ名古屋市の人口が公簿人口で100万人を突破したというので,そのお祝いとともに,”
 「第3期水道拡張事業完成」,「公会堂竣工」。「中川運河開さく竣工」,「堀留下水処理場竣工」を祝して,新装なった市公会堂において,「人口100万人突破記念並びに4大事業竣工祝賀式」が開催されたが,この催しは,このような都市基盤の整備をバネに市勢のさらなる飛躍を顕って,当 時としては頗る犬々的に挙行されたのである・
 さて,この昭和5年の人口100万人突破祝賀会には,これ又,頗るおもしろい話が付随しているのである。と,いうのは,この祝貿会の少しあとに行われた国勢調査の結果,名古屋の人口が90万7,404人という数字が出たためおかしいということになり,市会で問題となって,時の大岩市長が遺憾の意を表するという一幕と相成ったのである。(注,名古屋市会史第6巻p.753)。
 どうも妙なことになってしまったのであるが,ともあれ,その後市の人口も順鯛に推移して,実際に100万人を超えたのは昭和9年頃であったと覚えてしる。(閑話休題)。
 なお,このような祝賀式が挙行された当時の世相を振返ってみると,その頃は世界的恐慌の波を受けて,日本中があげて不況のどん底にあったときで,昭和6年には,総ての公務員の月給が一律に一割減俸(カット)となったのである。
 今日では到底考えられないことであるが,下水道工事では,失業救済事業ということで,日給上限1円10銭の旁務者を大量に雇い入れた。特に名古屋市と東京市は,失業者の吸収率が高く,ために名古屋市の下水道も,この時期に下水管の布設が大いに進捗したことを覚えている。
 かくして,堀留処理場は竣工以来,順調に運転されていたが,中区の人口がその後徐々に増大してきたので,今から何年か前に隣地に処理場を増設し,あるいは処理施設を改良するなどして今日に至っていることは周知のとおりである。
 なお,この堀留処理場は,建設当時としても非常に斬新な設計として瞠目されたものである。
 これは同処理場が市の中央部に位置し,付近は人家が密集していたので,外観には特に留意して沈砂池及び曝気槽上部は覆蓋して,その上部には芝を張り,遊歩道を設けた。又,臭気排除のためその高さ31mの排気筒を設けるなど,当時としてはまだ例のないスケールの大きいものであった。
 私の回顧と申すと,大体以上のようなことであるが,今から60年も前のことでもあり,今日のような下水道事業や技術の進歩した状況の中から見ると,まことに今昔の感に堪えない。