大阪市の活性汚泥法                      2013.9       山下 博
 明治時代の大阪市は、コレラ対策を進める上水道布設工事と並行して下水道改良を急がねばならないという世論が盛り上がっていた。明治25年に開催された大阪私立衛生会で、下水による井戸水の汚染がコレラ流行の主因であり、下水道改良の急施が決議された。このように下水道改良は市民の強い要望であり、不可避の要請であったが工事規模が大きく激しい議論が展開された。下水管は27年に認可を受け27年から44年まで、我が国最初の大規模な下水道事業として行われた。また、明治44年から大正11年まで第1回下水道改良事業に着手した。認可では排除方式は合流式とし、下水の最終処分は、最寄りの河川、水路に放流し、下水処理は将来の課題とした。都市計画第1期下水道事業は大正11年に認可を受け下水管の増設とポンプ設備の増強を行った。一方、この時期には海外における促進汚泥(活性汚泥)処理法の手法を実験的に解明する大規模実験処理場を市岡抽水所構内に、京都帝国大学教授 大藤高彦の指導のもと、大正14年6月に完成させた。処理水量は4,776m3/日、工費111,000円であり、大正14年12月4日から15年1月24日まで50日間実験を行った。その成果は昭和6年から15年までの都市計画第4期の下水処理事業(津守及び海老江下水処理場)の実施に大きく寄与することとなった。この事業により河川に放流していた汚水を遮集管で集め中部処理区は津守処理場に、北部処理区は海老江処理場に導き、津守、海老江の二つの処理場は昭和15年4月にそれぞれ143,000m3/日、88,000m3/日の処理能力で散気法によって供用開始されている。当初、下水処理は標準活性汚泥法で行われていたが、後には流入する汚濁負荷量の増加、用地不足及び増設工期等の関係から、昭和34年には中浜(東)下水処理場がステップエアレーション法で建設された。同じ施設容量で標準活性汚泥法の処理能力の1.1〜1.3倍まで下水処理ができるステップエアレーション法は大きな魅力であり、大阪市ではその処理法のメリットを受け継いで長い間主要な下水処理法となってきた。
                              出典: 「日本下水道史」(事業編:上,下)