名古屋市、日本最初の活性汚泥法                2013.9       山下 博
 下水道の創設事業(管路事業)は大正12年3月に一応の竣工をとげたが、事業期間中の大正10年8月に隣接16か所の町村の大合併により、市域は人口・戸数も大幅に膨張し、改めて下水道の拡張計画を立てる必要に迫られていた。また、創設事業では、下水の放流先を市内中央部を貫通する堀川、新堀川に求めたため、「両河川は悪臭を発散し汚滓を浮流し、下水溜の如くなった。付近一帯の住民に与える害毒はもとより、言うに及ばず航行者、陸行者をして亦極めて不快の念を禁する能はさらしむるの現況で会った。―――」この問題は市会でも議論となり、将来とも市勢の拡張によって下水の流水量が増大する。浄化するための充分な上流清水の獲得は到底不可能ということになり、むしろ下水の放流を停止する方が良策という結論に達した。
 また、長年市の財源となっていたし尿は時代の推移とともに、年々価値が減り、その処分に数十万円の私費を投じなければならない状況になっていた。そこで、処分方法として下水道に放流させるのが最善だとの結論に達した。
 以上を踏まえ下水の河川への放流をやめ、抜本的な下水処分法を考えることが河川の清浄を保つうえで、さらにし尿処分のうえでも、根本的解決に得る“一挙両得の策”として市会で意見の一致をみた。
 そこで市長の川崎卓吉は下水道の拡張と下水処分に関する調査設計を行うこととし、12年度の予算に下水道調査設計費を計上した。下水処分の問題は当時欧米先進国においてもあまり発達しておらず、我が国においては東京市三河島にその一例を有するのみであった。その成否は市の重大事項に属するので学識経験者を広く世間から募ってその指導に寄った。委嘱先は東京帝国大学教授の草間偉、元東京市下水課長の米元晋一、工学博士伊藤久米蔵の三人である。大正14年3月には成案を得、8月には「名古屋市下水道調査設計報告」として市長に提出した。この調査報告こそ、名古屋市下水道拡張および下水処分に関する将来の大計を樹立したというべきであった。
 この報告の事業計画は2案に分かれており、第1案と第2案の相違は下水の処分法であった。第1案は下水を庄内川河口の鴨浦の集めて粗大な固形物や沈殿物を除いた後、下げ潮に乗せて沖合に放流させるというものであり、第2案は下水を千年に集め促進汚泥法によって浄化したのち、もよりの河川に放流させるというものであった。そして両案のうち、名古屋市が採用すべき方法として、第2案を下水の最終処分を「本市将来の為合理的且つ無難な方法なり」として、その採用を勧めてあった。
 「調査設計報告の第2案」で下水処理の方策として提案された促進汚泥法は1913年(大正2年)イギリス人ファウラー博士によって創案され、1914年からイギリスで実施された比較的歴史の浅い処理法であり、我が国の実施例はなく気候・風土の違いからこの方法を採用することに疑問視する向きも多く、実地試験の成果をみる必要があった。
 東京帝国大学 草間偉教授の指導のもと実験場所を大正12年3月に竣工したばかりの熱田抽水場校内に決め、13年4月に設備工事を始め、同年12月に、日量434m3規模の実験プラントの試験を開始した。促進汚泥をつくるのが、先決問題であったが、途中設備の故障や散気板取付部の破損などの失敗もあり、翌14年4月に促進汚泥の発生をみた。実験中は汚泥色も茶褐色になり臭気もなくなり分析結果も所期に近い実績となり、実験は一応成功した。
 実験の結果は促進汚泥法による下水の最終処理計画に根拠を与えるとともに、下水処理場建設の実現性を促す誘因であった。また同時に我が国における最初の促進汚泥法すなわち活性汚泥法の実用化時代の幕を開けた。
 事業は昭和2年から4年までの3か年継続事業として昭和2年1月に市会に提出し2月に議決され2年4月に内務大臣認可申請 3年3月に認可を受け、建設に着手した。

                        出典:名古屋市下水道事業百年史