京都市の活性汚泥法                      2013.10       山下 博
 京都は延暦13年(794)の長岡京からの遷都以来明治2年(1869)の東京遷都に至るまで、文字どおり千年の都として我が国の政治、経済、文化の中心として栄えてきた。
 下水道布設計画は明治27年の京都府会市部会における市内高低測量の建議に端を発している。当時、消化器系伝染病の多発、市内河川の汚濁、し尿処理の問題など環境衛生上、下水道の整備が強く求められていた。そのため明治、大正時代を通じて数度にわたり調査活動が繰り返されたが、下水道建設には巨額の事業費を要すること、また当時京都市の三大事業であった、水利、電気、水道事業に莫大な事業費を投じていたことなど財政上の理由から、下水道事業に着手するまでには至らなかった。その後、道路改良計画の進行に伴い下水道整備の必要性が高まり、昭和4年に土木局で実施設計を開始し昭和5年に着手した。当時、我が国は経済界の不況から失業者が急増し、また政府も多額の国庫補助金を支給して失業救済事業を奨励したもので、京都市においても未熟練工を多数雇用できる下水道事業の実施計画を立て、施工の急がれる部分から、都市計画事業並びに失業応急事業として着手することとし、昭和5年8月に内閣の認可を得た。9年の第5期事業までの認可内容は、約760haの面整備と吉祥院処理場の建設があったが、本場は鴨川をはじめとする市内河川の汚濁防止と六大都市中首位を占めた消化器系伝染病及び市内し尿処理の根本的解決上、この試験を行うものであった。具体的には、第2期事業の中で吉祥院処理場の建設を行い、昭和6年11月に着工し、昭和9年1月に竣工した。活性汚泥法によって二次処理まで行い、発生汚泥は一段消化後、乾燥床で天日乾燥した。昭和10年1月には、全市下水道布設計画案が内閣の認可を得た。これは全市を東山、中部、西ノ京、伏見の4排水区に分けて8,951haの支線整備を行い、全市の大部分の下水処理を行うため鳥羽及び伏見に下水処理場を建設するものである。鳥羽処理場の第1期施設の建設が昭和10年5月から始められ14年2月に竣工した。鳥羽処理場は、吉祥院処理場の運転実績に基づいて設計され、エアレーションタンクにはパドル式攪拌機を設置した。汚泥処理は、覆蓋ドーム型章消化タンクによる1段消化ののち乾燥床で天日乾燥によった。鳥羽処理場の稼働に伴い、吉祥院は休止した。
                           出典: 「日本下水道史」(事業編:上,下)