川崎市下水道事業と活性汚泥法         2013.10       西村孝彦
 大正13年に誕生した川崎市は、市域が多摩川下流域の低地に発達し、排水不良地が多く、下水道による排水計画が必要であった。大正15年には中心市街地を対象に、下水道の専門家を招聘して2カ年にわたる調査を実施した。当時は下水道を布設する道路の建設が遅れており、また、昭和2年の金融恐慌以来、日本経済が低迷していた時期であり、下水道を実施する財政的余裕がなかった。昭和6年になり失業救済事業として国の補助金を受け、県道整備と平行して下水幹線を建設したのが川崎市下水道事業の始まりである。昭和11年には下水道第1期事業7ヵ年、昭和15年に下水道第2期事業10ヵ年が実施され、戦前の下水道整備は、排水面積で128haが完成し、合流式下水道管きょが38km建設され、3ヶ所の雨水ポンプ場が稼働した。
 戦後は、昭和21年度から戦災復興事業として下水道を整備してきたが、下水道事業の本格的な実施は、昭和25年、土木部の中に下水道課が新設されてからである。昭和24年に上陸したキティー台風により、市内各所で浸水による甚大な被害が発生し、下水道整備の立後れが痛感され、翌年の執行体制の強化と事業予算の確保へと繋がった。このように川崎市では、市内低地の排水対策を重点に、合流管きょの布設、排水ポンプ場の築造を主体に事業を進めてきた。一方、戦後の京浜工業地帯の発展に伴う工場排水の増大や、人口増加による雑排水の増大が、排水域の悪臭や水質悪化を引き起し、汚水処理が切望された。昭和32年3月、戦前からの下水道施設を含め、川崎区、幸区を中心とした1810haが新たに処理区域として設定され、海側に位置する入江崎に終末処理場を築く都市計画が策定された。入江崎下水処理場は、計画人口360,000万人、晴天時最大処理下水量160,000m3の合流式処理場として、昭和36年9月、神奈川県下で最初の活性汚泥法による下水処理場として稼動した。処理方式の活性汚泥法を採用した理由は、「放流先河川の下流域で海苔の生産がおこなわれており、食品衛生並びに市民の環境衛生上及び将来処理水の工業用水化を考え、活性汚泥法による高級処理を行う」と認可書に記されている。曝気槽は水深5m、幅8mであり、池底に散気板を設置した片側吹込み旋回流方式を採用し、長さは50mの4条迂回流の200mである。曝気時間は返送汚泥量含みの4時間であり、曝気風量は6倍量である。これら処理場設計に関する諸数値は、実験等で川崎市が独自に求めたものではなく、既に活性汚泥処理法を採用している先進都市の事例を参考として設計されたものである。